長崎の古絵図についての二三の話題    

―ケンペルが持帰った”Nagasaki Ezu”とその流れ、長崎警備さらに有馬晴信の終焉の地ー

 

目次

1. 大英図書館のケンペルコレクション

2. ケンペルが収集した“Nagasaki Ezu

3. ケンペルの手書きの長崎絵図と『日本誌』

4.       消えたケンペルの自筆のメモ書き、大英図書館のブログ;出島の猫?

5. 『唐船来朝図長崎図』江戸通油町 松會開板

6. Nagasaki Ezu”のもとの絵図の検討 

7. 古絵図から見た長崎港の警備:

 西泊・泊番所、台場、塩硝蔵、石火矢など

大友宗麟の大砲がロシアの博物館に。

8. 絵図にある「黒船焼沈候所」とキリシタン大名・有馬晴信の終焉の地(甲州初鹿野)

 

要旨

 昨年夏休みにロンドンへ行ったが、急に大英図書館に行くことを思い立った。

 ここでケンペルコレクションの“Nagasaki Ezu”と「ケンペル手書きの長崎絵図」の写真を撮ることを許された。

 この絵図は長崎の絵図の木版画としてはもっとも古いもので京都版と考えられている。時代的には

 延宝8年―元禄元年(16801688ごろのものと推定できる。

ケンペルは”Nagasaki Ezu”  を模写したが、これには彼が出島に滞在した2年前に開設された唐人屋敷を

描きくわえた。この図はケンペルの名著『日本誌』の原図となり、その後長年海外で知られた長崎の絵図となった。

他方唐人屋敷の記載のない” ”Nagasaki Ezu”  は元禄3年ごろ江戸通油町の松会(しょうかい)という幕府ご用達の

書肆(しょし)から『唐船来朝図長崎図』として開板された。この絵図には「諸大名長崎旅宿付」と「昼夜の長短見様」

「塩のみちひ見様」の2枚の円盤が付いている。

“Nagasaki Ezu”は版画であり、その原図についても東大の南葵文庫の『長崎之図』なども検討したが、貞享元年(1684

ごろの作図である岩瀬文庫蔵の『長崎絵図』推定されることが判った。とくに長崎湊の上の島近くの小島の名前の

付け間違い決め手になった。

次に絵図に描かれている台場、塩硝蔵などに注目し長崎警備について注目した。承応2年(1653)に設置された7台場は

普段は高札のみで番人もいないもので、異国船渡来の節に石火矢(大砲)が西泊・戸町の両番所から運ばれること、

さらに弾薬である塩硝は小瀬戸近くの土生田の塩硝蔵から運ばれるまさにドロナワ的な危機管理体制であったことが

判った。この形式化し無力な体制は文化3-4年(1806-7蝦夷地でのロシアの襲撃事件(魯寇事件)での大敗で大きな

衝撃を受け見直しが始まったが、翌文化5年の英船フェートン号事件には間に合わなかった。石火矢も旧式なもの、

沈船から引き揚げたものなどお粗末で使い物にならなかった。この長崎警備の体制が見直しは、嘉永6年(1853)の

四郎が島への佐賀台場の設置で完成したが、この翌年には安政条約が結ばれ警備の意味合いはすっかり変わってしまった。

”Nagasaki Ezu”およびその流れの『日本誌』に記載された長崎の絵図には伊王島の近くに「黒船焼沈候所」書かれた場所がある。

慶長14年(161012月にクリスチャン大名の有馬晴信がポルトガル船デウス号を焼き沈めた場所である。山梨の初鹿野に

晴信の終焉の地があった。