「司教・早坂久之助〜日本人初の長崎教区長〜」
 
 ヤヌワリオ早坂久之助司教は、仙台市名掛丁、旧仙台藩士早坂久五郎とリヨを父母に、
8人兄弟(男4人・女4人)の次男として1883(明治16)年9月17日に誕生した。同月19日、
マレシャル神父より受洗。早坂家のカトリック入信は、父久五郎が営む八百屋へ宣教師の
賄いの関利五郎(長崎浦上出身)が日参し、親しくなったことに始まる。
 7歳のとき、ジャッケ神父が経営している仙台元寺小路教会附属小学校に入学、当時4年制
だった小学校課程を修了。さらに同校の小学高等科へ進んだ。のちに東京築地の文海小学校
に転校。同時に小神学生として、築地の小神学校に籍を置いた。
 翌年、日本中学校に入学、5年の課程のうち4年を終え、仙台の旧制第二高等学校の文科を
受験して合格したので、仙台に帰って清水小路にあった仙台神学校から二高に通学した。
 1905(明治38)年、卒業と同時に日本最初のプロパガンダ奨学金でウルバノ大学への留学生
としてローマへ派遣された。
 5年8ケ月余にわたる勉学を終えて、1911(明治44)年6月10日、ローマで司祭に叙階される。
同年8月6日、日本に帰り、その後東北各地の教会を司牧する。
 1927(昭和2)年7月2日、長崎教区を邦人司教区とする教皇令が発布された。日本人初の
司教の誕生は、日本のカトリック信者ばかりではなく、ローマにおいても待望のこととして大歓迎
された。時のローマ法王ビオ11世は、彼をローマに招いて同年10月30日、聖ペトロ大聖堂に
おいて多くの枢機卿、司教そして各国から参列者列席のもとに盛大な式典を挙行した。
 その後フランス、アメリカを経由して日本に帰国。帰朝早々東京の報知新聞社講堂で、カンドウ
神父、松岡新一郎氏と一緒に『欧米諸国より帰りて』と云う演題で公開講演を行う。
 1928(昭和3)年4月25日、長崎教区長として着座した。病に倒れ1937(昭和12)年辞任する
まで、数多くの業績を残した。1959(昭和34)年10月26日仙台で帰天。長崎に運ばれて、現在
赤城聖職者墓地に眠る。
 
 早坂久之助司教の業績
◇ 13名の司祭を叙階させる。
◇ 多くの教会を建立
  三浦町教会、下神崎教会、紐差教会、平戸ザビエル教会、大田尾教会、浅子教会、浜脇教会、
  馬込教会
◇ 純心聖母会の設立
◇ コンヴェンツアル・聖フランシスコ修道会(聖母の騎士)、フランシスコ会の招聘
◇ 聖婢姉妹会のバラの修道院、託児所の開設
◇ カトリック教報を発刊 など