「上原熊次郎有次について」 江戸がたり 寿々方
著書
@『もしほ草』(もしおぐさ)
2740語からなる世界初のアイヌ語辞書
イ.もしほ草(表題)
ロ.藻汐草序(白虹斉撰)最上徳内
ハ.寛政4年5月4日の跋(通辞・上原熊次郎 支配・阿部長三郎)
A次版
イが消え『蝦夷方言藻汐草』となった
ロは残り、ハが削除
B『蝦夷ヶ島言葉』
ライデン大学 シーボルトに最上徳内、桂川甫賢により贈られる
もしほ草をいろは順に並べ替えたもの
C『露語文法規範・巻之六』
ゴロヴニン序・馬場貞由訳・足立信頭)参考・上原有次校閲
D『蝦夷語集』
文政7〜8年頃 9380語近世最高の語彙を有する
E『蝦夷地名考?里程記(えぞちめいこうならびにりていき)』
文政7年
金田一京助先生は、上原有次を「アイヌ語の鼻祖」と称える
@は世界初のアイヌ語の辞書と同時に和歌、実際に使われた例文、ユーカリがあり、
アイヌ語の古語を見ることができるBにより西洋からのアイヌ語研究に火をつけた
上原熊次郎の人脈
外国人
@アダム・ラクスマン 他ロシア人数名
Aゴロヴニン以下7名のロシア人とクリル人(千島アイヌ)のアレキセイ
ゴロヴニン副官リコルド
松前奉行
荒尾但馬守、小笠原伊勢守、服部備後守
松前奉行所吟味役
大島栄次郎(箱館詰)
高橋三平
柑本兵五郎
漂流民
大黒屋光太夫・磯吉
最上徳内(探検家 幕臣 普請役)
近藤重蔵(探検家 幕臣) 木村謙次(学者 医者)
伊能忠敬
間宮林蔵
足立左内(学者) 馬場佐十郎(オランダ語通辞)
村上貞助(村上島之允の養子)
松田伝十郎 深山宇平太 小林東鴻(医者)
高田屋嘉兵衛 他豪商 商人 町役人 番人
アイヌの酋長達 アイヌ
松前藩役人 幕府奉行所役人
高橋作左衛門景保(天文方) 江戸での幕臣
『北門の功労者 アイヌ語通訳・上原熊次郎』
蝦夷通辞
松前藩の場所請負制度
場所(交易をする所)会所・運上屋・番屋
寛政 元年(1789年) クスリ(釧路)の通辞
寛政10年(1798年) アブタ(虻田)の支配・通辞
寛政11年(1799年) 蝦夷が幕府の直轄地となる アイヌに対して同化愛育制度へ変わる
文化 4年(1807年) 松前奉行所(地雇)の同心となる
ロシア事情
○毛皮を求めてシベリア大陸からアリューシャン列島へ移動 食糧・水・薪・交易を求めて日本へ
○当時、日本の漂流民はロシアに流れ着いた
この漂流民を送り届ける理由で日本に来る(国策)
○エカテリーナ号(アダム・ラクスマン) 寛政4年(1792年)9月5日ネモロに来る
漂流民 光太夫、磯吉を松前で受取り、女王の親書は受取らず、信牌を与えて帰す
○レザノフ長崎に来る
皇帝の国書と、松前でラクスマンに与えた信牌を持ってである
6ヵ月以上も上陸を許されない
6ヵ月後遠山景晋が到着 通商を強く拒絶、信牌も取り上げられ帰る
鬱屈した心情が恨みに変わりフヴォストフに日本攻撃を命令する
フヴォストフ、ダヴィドフの襲撃
文化3年(1806年) 9月 ユノナ号とアヴォシ号でカラフトを襲撃
文化4年(1807年) エトロフ島ナイホ、サハリンクシュコタンを襲撃、多くの死者を出す
幕府の威信は地に落ちた
文化4年(1807年)12月 ロシア船打ち払い令
東北諸藩への出兵命令がでる
ゴロヴニン来る
文化8年(1811年)5月26日 クナシリのトマリに来る
6月 4日 奈佐瀬左衛門(松前奉行所調役)によりゴロヴニン他8名逮捕される
副官リコルドはオホーツクへ帰る
ゴロヴニン一行は25日かけて歩いて箱館に着く
7月3日熊次郎との出会い以来、2年2ヵ月余りの付き合いとなる
大島栄次郎(箱館吟味役)の審問で千島アイヌアレキセイと熊次郎の二重通訳
8月22日 箱館出発
8月25日 松前到着
松前奉行・荒尾但馬守の審問 1ヶ月かけて身上書・嘆願書の作成
村上貞助来る
間宮林蔵来る
幕府からの下知状届く
文化9年(1812年)3月24日 ゴロヴニン脱走
4月 4日 江差で再逮捕
バッコ沢の牢
荒尾但馬守の進言
熊次郎在住勤方に昇進
文化9年8月 3日 リコルド(ディアナ号)で救出に来る
8月14日 高田屋嘉兵衛 観世丸を拿捕 自らカムチャッカに行く
ロシア公文書館に残る文章での結末
(保田孝一先生 岡山大元教授 による)
熊次郎 クナシリで高橋三平、柑本兵五郎の供をしてシマノフ、アレキセイと共にリコルドと対面
上役からの弁明書を持って来るように要請
ゴロヴニン箱館に移動
文化10年(1813年)9月26日 松前奉行所の諭書を渡し返還式完了 帰国を許す
ゴロヴニン ディアナ号に帰る
9月29日 ディアナ号出帆
その後の熊次郎
文政4年(1821年) 幕府は蝦夷地を松前藩に返還
文政6年(1823年)〜文政10年 彼の行動は不明
『蝦夷地名考?里程記(えぞちめいこうならびにりていき)』文政7年
『蝦夷語集』文政8年〜10年
文政10年(1827年) 伊豆七島廻島に参加
7月2日に没したと筆者はした
実際は…
文政10年(1827年)7月31日 浦賀にて病死