「「如己愛人」 〜永井隆の生涯と平和の精神」
 
・明治41(1908)年 島根・松江市に生まれる
→ 翌年 島根県飯石郡飯石村(現・雲南市三刀屋町) へ
→ 小学校を優等で卒業、松江中学・高校へ進学
 
・昭和3(1928)年 医者を目指し、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学
→ 勉学のみでなく、学友らとバスケット部を創設:全国大会3位入賞
 
・昭和7(1932)年 卒業直前に急性中耳炎に→ 内科志望を断念
 
・昭和8(1933)年 満州事変に従軍 → 「公教要理」との出合い: カトリックに改宗
 
  ・昭和12(1937)年 日中戦争に従軍 → 敵味方の区別なく負傷者を救護、
  中国より表彰される 〜赤十字精神
 
 ・昭和19(1944)年 医学博士になる
 
 ・昭和20(1945)年6月 慢性骨髄性白血病、余命3年と診断
 
 ・同年8月9日午前11時2分 長崎医科大学で被爆。重傷を負うが同大で3日間の救護活動。
  その後、子供たちの疎開先の三ツ山に救護所を設け、約2ヶ月間の救護活動を行う
 
 目の前がぴかっと閃いた。・・・私はすぐに伏せようとした。その時すでに窓はすぽんと破られ、
猛烈な爆風が私の体をふわりと宙にふきとばした。私は大きく目を見開いたまま飛ばされて
いった。窓硝子の破片が嵐にまかれた木の葉みたいにおそいかかる。
 
 目にみえぬ大きな拳骨が空中を暴れ廻る。寝台も、椅子も、戸棚も、なにもかも叩き壊され、
投げ飛ばされ、掻き廻され、がらがらと音をたてて、床に転がされている私の身体の上に
積み重なってくる。                                  (『長崎の鐘』より抜粋)
 
 ・昭和20年10月 再び浦上の地に戻り、生活再建を始める
  被爆から半年間は、亡くなった妻や多くの人たちの冥福を祈る気持ちを込めて、ひげも剃らず
  髪も切らなかった。
 
 ・昭和21(1946)年 教授に昇任するも、同年11月病に倒れ、以降寝たきりとなる。
 
倒れての始む 〜 『ことば』による活動
 
 病床での著作活動を開始、昭和26(1951)年5月1日に亡くなるまで、『長崎の鐘』や
『この子を残して』など、没後刊行されたものも含め17冊の本を書き上げ広く恒久平和実現を訴える。
 
 〜病床に倒れたと言えども、まだ働く部分を探したら、手と目と頭があった。私はこれを使って
かせごうと思いたった。                             (「尊い貯金」(『いとし子よ』))
 
 「長崎の鐘」、これこそは私の最初の文章であり、最後の著書、主著である。発刊された暁には
さぞいろいろの問題を提供するであろう。その中にこめられた永久平和の悲願はきっと読者の胸に
科学的裏づけを持って理解してもらえるであろう。(中略) これが世に出て日の目を見ぬうちは、
私は目をつぶらぬ、つぶられぬ...                   (「原子野に伏して」(『平和塔』))
 
 
戦争はおろかなことだ!   戦争に勝ちも負けもない。あるのは滅びだけである!
人間は戦争をするために生まれたのではなかった!  戦争はこりごりだ!   平和を!  永久平和を!
この叫びを私は広く伝えたかった。この叫びは耳新しいものではない。ここだけで叫ばれているもの
でもない。けれども原子荒野から叫ばれる時、それはことに強く人々の胸を打つのではあるまいか?
焼け野にころがる白骨が叫ぶ時、それは特に鋭く人々の心に刺さるのではあるまいか?
                                       (「『長崎の鐘』由来」(『花咲く丘』))
 
人類は原子時代に入って幸福になるであろうか?それとも悲惨になるであろうか?(中略) 人類は
今や自ら獲得した原子力を所有することによって、自らの運命の存滅の鍵を所持することになったのだ。
                                         (「原子野の鐘」(『長崎の鐘』))
 
 己の如く・・・人を愛す。言葉はまことに優しい。しかし、いざこのとおり行おうすると、わが一生
を棄てるところまでゆかねばならぬ場合も起こる。わが子よ、ここにこの句をあげたのは、言葉を教え
たのではなく、これをそなたたちが一生の間つねに行ってくれるように願ってのことである。人はとも
すればわが欲に心を奪われ、このもっとも大きな掟を忘れがちなものである。
それゆえ私は、この私らの住む家に如己堂と名をつけた。
                                          (「いとし子よ」(『いとし子よ』))
 
 如己堂(にょこどう)
 
昭和23(1948)年、カトリック信者仲間から贈られた、畳わずか2畳の家で、博士の書斎兼病室となった。
 
 アンジェラスの鐘(精神的支柱) 〜「長崎の鐘」のモデルともなった鐘
 
昭和20(1945)年のクリスマス・イブ、原爆で吹き飛ばされた浦上天主堂のアンジェラス(ラテン語で
「天使」の意)の鐘のうち1つが、壊れないまま見つかった。「よぉし、これを鳴らそう! そして人々の
心に生きる勇気と希望を取り戻そう! 」隆の意見に賛同した教会仲間たちを中心にその鐘は見事
つり上げられ、その夜、音のない原子野に鐘の音が清らかに響き渡った。浦上地区のカトリック信者
12,000人のうち、約8,500人が爆死したといわれる。
 
 あの子らの碑(慰霊・反戦)
 
原爆で亡くなった山里小学校のおよそ1,300人の子供達の霊をなぐさめ、生き残った子供達には、
戦争の悲惨さと平和の尊さを訴えるため、博士の呼びかけで子供達が書き上げた体験文をまとめた
「原子雲の下に生きて」の印税をもとに、この碑を建立。昭和24(1949)年11月3日、除幕式が行われ、
以降今日まで、毎年11月にはこの碑の前で平和祈念式が行われている。
 
 永井千本桜(復興)
 
原爆で荒れ野と化した長崎の地を、再び「花咲く丘」にしようと、桜の苗木1,200本を購入、学校や
教会、病院、道路などに寄贈・植樹した。現在でも、20数本の桜が、浦上天主堂や山里小学校、
純心学園などで毎年花を咲かせている。また、隆の遺徳顕彰の会「長崎如己の会」による『永井千本桜
2世植樹計画』も開始され、2世桜200本が全国に植樹された。
 
 うちらの本箱(夢と希望・文化育成)
 
原子野に生きる子供達が読む本も持たず、魂を養う糧に不足がちなのを見て、子供達が自由に本を
読み、勉強出来る場所として設けた私設図書室。国内はもとより、海外からも寄贈図書が寄せられ、
蔵書数は5,000冊を越えた。隆没後の昭和27(1952)年、生前の願いであった「長崎市立永井図書館」
が開館、現在の永井記念館へと発展した。
 
 平和を
 
国家表彰を機に、改めて平和を願う心を忘れないよう、「平和を」の書を1,000枚書いて、見舞いに
訪れた人や励ましの手紙をくれた人などに送った。
「いくつかの本を書きましたが、つまるところは私の書いたことは『平和を・・・』の願いであります。
平和をことさらに壊そうとたくらむ人々があるように見えますが、その人々を敵にまわして憎んでは
なりません。
                                             (「平和を」(『原子野録音』))
 
  隆の業績
 
・長崎市名誉市民 :     昭和24(1949)年12月
 
・国家表彰  :   昭和25(1950)年6月
 
・三刀屋町名誉町民 :    平成16(2004)年6月
 
 
 如己愛人 にょこあいじん
 
 真の平和とは、隣人愛により作られたものであると考え、表した書で、恒久平和実現の精神を
示したものである。
 
 「おのれのごとく、ひとをあいせよ」、すなわち「自分を愛し大事にするように、まわり人を大切に
しましょう」との意味が込められている。
 
わがいとし子よ。
 
 「なんじの近き者を己の如く愛すべし」
 
 そなたに遺す私の言葉は、この句を持って始めたい。そしておそらく終わりもこの句を持って結ばれ、
ついにはすべてがこの句に含まれることになるだろう。
 
                                           「いとし子よ」(『いとし子よ』))
 
 人間・永井隆とは・・・
 
・どこまでも”命”を大切にした。
・どんな時も周囲の人を励まし続けた。
・自分が決めたことは徹底的にやり抜いた。
・困難なときも、決してあきらめず、冷静に考え行動した。
・マイナスのことでも何とかしてプラスに考えようとした。
・子供たちの未来が明るくなるよう願い続け、努力を惜しまなかった。
・まわりの人へ感謝を持ち続け、他人の恩には誠心誠意応えた。