「長崎唐通事について」
 
@唐通事に関する資料は、「唐通事家系論攷」(宮田安著 長崎文献社刊)、「長崎唐通事」−
  「大通事 林道栄とその周辺」(林陸郎著 吉川弘文館刊)及び私の父が著した「維新への
  澪標―通詞 平井希昌の生涯」とその他の文献を参考にした。
A唐通事とは
  徳川幕府の始めより長崎奉行所の地役(世襲制)として長崎在住の唐人「ほうろく」が
  1603年、最初の唐通事として任命された。仕事の内容は通訳だけでなく、唐船の管理、
  交易業務、市中の唐人と唐人屋敷の秩序管理、唐船風説の聴取と報告、信牌発給
  (信用状)等が主な業務であった。唐通事は、中国と東南アジアの情報を得るために第一線
  で活躍し、幕府が海外情報を入手する上で重要な役割を果たした。墓所は長崎のうたいじ
B唐通事としての平井家について
  平井家の太祖の平井敦昌(市左衛門)は、相州鎌倉の産で、寺沢志摩守広高が幕命により
  慶長6〜8年(1601〜1603)初代長崎奉行として長崎に下向の際同道し、平戸に居住し
  後に長崎に移住した。その後代々通詞職の家柄である。(家格としては低かった)
  初代(市左衛門)は、大村藩の家臣森氏の次女を娶った。なお森氏の長女は、当時の唐通事
  の名門の林公炎に嫁いだ。平井家の墓所は長崎市の晧台寺にある。
  第10代の義十郎(明治になり希昌と改名)の功績について。
C他の唐通事の功績等について(明治12年、明治天皇ご下命写真帳より)
  何礼之、盧郎、岡田好樹、何幸五、名村泰蔵、柳谷謙太郎、江川君平、鄭永寧、森山茂、
  伊東巳代治
D平井希昌の葬儀参列者(明治29年2月15日の葬儀)