「佐賀藩領深堀歴史探訪」
 
深堀の位置
  長崎市深堀町  ←  長崎県西彼杵郡深堀村  ←  佐賀藩深堀領

略年表
《原始・古代》
  深堀遺跡から縄文・弥生時代の遺物や人骨、古墳時代の石棺が出土
  文治 2(1186)   彼杵荘の荘名初見、深堀は彼杵荘の荘域にある

《鎌倉時代〜南北朝時代》
  建長 7(1255)   上総国御家人深堀能仲が肥前国戸八浦(現深堀)地頭職に補任さる
  弘安 4(1281)   深堀時光ら深堀氏一族が博多で元寇合戦に参陣
  建武 8(1336)   深堀氏一族が足利尊氏方として豊後玖珠城攻めに参陣
  正平 10(1355)  深堀時明、南朝方として筑前・豊後・豊前に出陣

《戦国時代》
  元亀 元(1570)   深堀純賢、長崎純景を襲撃、以後しばしば長崎を襲撃
  天正 15(1587)   純賢、豊臣秀吉から本領を安堵さるも直後に海賊行為を処罰さる
  文禄 元(1592)   純賢、鍋島軍に加わり朝鮮へ渡海
              帰国後、石井信忠二男茂賢を養子として深堀の家督継承

《江戸時代》
  寛永 14(1637)  鍋島(深堀)茂賢、島原の乱に出陣
  寛永 19(1642)  佐賀藩に長崎港警備が命じられ深堀鍋島家は警備定詰めとされる
  正保  4(1647)  リターン号事件。鍋島(深堀)茂里、長崎港を警備  
  元禄 12(1699)  鍋島(深堀)茂久 佐賀藩加判家老に任じらる
  元禄 13(1700)  深堀家士、長崎町年寄高木彦右衛門邸に討入(長崎喧嘩騒動)
  文化 5(1808)   フェートン号事件。鍋島(深堀)茂辰、警備の責任を問われ蟄居

《幕末・維新》
  元治 元(1864)  鍋島(深堀)茂精、長州征討のため筑前木屋瀬へ出兵(再征にも出動)
  慶応 3(1867)   茂精(孫六郎)、上洛し戊辰戦争北陸道追討軍として出動、
              以後対庄内戦にも従軍(深堀六番隊)
  明治 5(1872)   旧佐賀領深堀は、伊万里県から長崎県に所管替え(西彼杵郡深堀村)
  明治 7(1874)   深堀士族、佐賀の役に与同し捕縛さる

《現代》
  昭和 30(1955)  西彼杵郡深堀村は長崎市に編入し長崎市深堀町となる
  昭和 43(1968)  埋め立てにより対岸の香焼島(香焼町)と陸続きになる
  平成 24(2012)  深堀地区は長崎市景観形成重点地区に指定さる