「南部大槌と長崎:奥州盛岡藩にあった長崎諸役所絵巻」
 
  今から220年余前の寛政3年(1791)盛岡藩大槌の木喰僧・慈泉が長崎勝山町の長崎奉行所の絵師から「旧役所図」と題した
長崎諸役所の絵巻(長さ12m余)をはなむけとして受け取り持ち帰った。この絵巻は藩主南部氏の所有となり、現在はもりおか
歴史文化館にある。

1.岩手県上閉伊郡大槌町のこと:2011.3.11で大きな被害を受けた場所の一つ。町長をはじめ幹部が津波で死去。町政がマヒした。
  吉里吉里国(井上ひさし)で知られる。山田線吉里吉里駅は大槌駅の次。いまだ不通。

2.長崎諸役所絵図とは?
  長崎奉行所が管理の目的で管轄下の施設の絵図面を作成、絵図帖または巻物長崎歴史文化博物館(4うち2は国重要文化財)、
  国立公文書館(2)、三井文庫(2)、国会図書館、西尾市岩瀬文庫、福岡市博物館、東洋文庫の12点が知られている。時期的には
  安永(1775)ごろから安政(1856)にまたがる。

3.「旧役所絵図」の概要と特徴
  3.1.東大史料編纂所蔵の「長崎諸役所建物絵図」、国会図書館蔵の「長崎諸御役場絵図』とよく似ている。寛政3年の前に作成された
     と思われるこれらの絵図を下敷きにしたものであろう。
  3.2.西泊、戸町の両番所、道生田の塩硝蔵が出ているのが特徴。
  3.3.岩原屋敷が寛政12年ごろ作成と思われる絵図と似ているのが特長。寛政の改革で長崎締め付けのため役人の江戸からの派遣が
     多かったためか?
  3.4 末尾に跋文が書かれていることがこの史料の価値を高めている。

4.  「旧諸役所図」跋文
    此図は当崎の名ある所を集記したるものなり。従公義図職を蒙り当時七十歳に逮(およぶ)とも日々相勤来る。
  然ルに老僧二十余年を歴て再来未飽清談復千里の人となり此世の別となる故になこりをしたひ老眼を不顧し此図を書て帰国の贐となす。
  願くハ老僧開発の古廟山に長伝んとことを欲するのミ。
      崎陽勝山町住
      寛政三辛亥歳   雪翁軒一釣
      七月日
      奥州南部大槌
      古廟山観流菴
      慈泉老師

5.慈泉法師:この菊池慈泉は、人生の半分を全国の霊山聖地を訪ねて修行、地元では村人の世話をし、国家安泰、海上安全、大漁祈願を
  行い、天明の大飢饉のあとは餓死者を葬り供養塔を建てるなど、地元で尊敬を集めた禅僧で、若い時は吉里吉里を根拠にした吉里屋佐兵衛
  という名前で長崎俵物の大槌宿や南部俵物問屋をしていた。

  慈泉の略歴
  享保11年(1726)   0歳		大槌で古里屋佐兵衛出生
  延享2年(1745)   20歳		このごろ剃髪か?
  延享3年(1746)   21歳		第一回目の諸国周流の旅
  明和3年(1766)   41歳		長崎俵物の大槌宿となる
  明和4年(1767)   42歳		長崎俵物の南部俵物問屋となる(明和8年まで)
  明和5年(1768)   43歳		第二回目の諸国周流行脚か?水戸の木食観海を訪ね木職戒を授けられる。
  明和6年(1769)   44歳		京・大坂・長崎まで参拝行脚。帰郷後古廟山を開く
  安永4年(1775)   50歳		(水戸羅漢寺の木食観海遷化)
  寛政2年(1790)   65歳		第三回目の諸国周流の旅に出発
  寛政4年(1792)   67歳		回国行脚から帰る。長崎絵図など種々の文物を持ち帰る
  寛政9年(1797)   72歳		藩主南部利敬、閉伊地方巡視の折に古廟山へ立ち寄る
  享和元年(1801)   76歳		5月29日江戸において遷化
    出典:花石公夫 閉伊の木食 慈泉と祖晴 (1998)

6.絵図帖が作成された寛政3年(1791)の時代背景
  日本: 「白河の清きに魚も住みかねて 元の濁りの田沼恋しき」の時代
    将軍は11代家斉、老中首座は松平定信、寛政の改革、老中田沼意次は4年前に失脚
  長崎;銅の取引量半減、唐船は10艘、蘭船は1艘に制限、
  北方:ロシアの脅威、林子平の海国兵談(閉門)
     異国船取扱令
  世界:アメリカ独立宣言(1776)、フランス革命(1789)

7.長崎と南部藩(大槌)との関連
  @)俵物(干鮑(ほしあわび)と煎海鼠(いりこ))
  A)銅 尾去沢 銅の買上価格が安く藩の財政を圧迫。
  B)北方警備 ロシア船来航による北方問題。長崎警備の佐賀・福岡藩の例にならう(南部、津軽藩で松前藩を助ける)
      盛岡藩は松前警備さらにはエトロフなどに勤番所を建設するなど重い負担を強いられた。文化2年(1805)には蝦夷地警護の功績
    によって10万石が加増され、南部利敬は石高20万石の大名となった。

明和元年(1764) 幕府より煎海鼠・干鮑買い上げの令達
    長崎俵物支配人と俵物宿
    この頃南部領内に俵物支配人として集荷に廻村した岡太平治・友永三治がいた。大槌では古里屋佐兵衛(慈泉)が宿となり世話をして
  おり、製品集荷や廻船の折衝代金支払いの仲介に当たった。証文があり契約が成立すると「長崎御用」との旗印が渡された。
    なお天明5年(1785)には請負問屋による俵物集荷は取りやめ、長崎会所による独占集荷となった。

『前川善兵衛家文書』横浜市金沢区福浦 国立研究開発法人 水産研究・
    教育機構 中央水産研究所図書資料館蔵 4700点

まとめ
  1.ずっとそのまま盛岡の地に埋もれていたかも知れなかった「旧諸役所絵図」を見出すことができ、大変幸運であった。
  2.この絵図の史料価値は、「跋文」が記されていたことで大きい。老師へ心酔していたとはいえ、これだけの労作を、はなむけに
    作成したとは考えにくい。老師は以前長崎俵物の問屋を経営していたこともあり、郷土の南部藩の置かれた長崎情報へのニーズを
    十分に承知していた。ひそかに絵図の製作を依頼し、多額の対価を払ったのではないか。盛岡藩がうしろにいたのかも知れないが、
    それを裏付ける史料はない。
  3.動機はさておき、元々は写本ではあるが製作年代が明確で、保存もよく非常に貴重なものである。また、絵図に書き込まれた細
    かい情報なども、長崎諸役所絵図の解析を広げることに大いに役立った。長崎と遠く離れた奥羽の地との繋がりを改めて知ること
    ができた。