「僕は陳さん? 『ファミリーヒストリーから見える日中交流の物語』」
僕は陳さん?
ファミリーヒストリーから見える日中交流の物語
高瀬毅(ノンフィクション作家)
●きっかけ
・偶然の「出会い」
・原田博二さん(長崎の郷土史家)の講演 「唐人屋敷と中国文化」
・唐通事の話 中国からの帰化人
改名 林?「林」 劉?「彭城」 陳?「頴川」
・母方の祖父 頴川 知ったのは10年ほど前
・母は山下 実は、祖父は、頴川から山下へ養子に
●帰化人・唐通事の名門「潁川」(頴川、穎川も同類)
・頴川 100%陳氏を祖先に持つ
頴川という文字は、陳氏の出身地 河南省、安徽省など
・「頴川」という姓は、まず日本人にはないらしい 帰化・改名は長崎奉行の「許可」
・唐通事 通訳、中国事情の聞き取り、幕府への報告、交易へ関与、信牌の発給、帳簿、
管理、唐人・唐館の管理、漂着した唐人の移送など、唐人貿易に関するあらゆる仕事に
・役職 大通事、小通事、稽古通事を基本として24役 826人
・唐通事の中でも、林、彭城、頴川は三大通事の家 頴川はもっとも多くの大通事輩出
・稲佐・悟真寺や、福済寺、興福寺、崇福寺などに墓地
・通事は、長男の直系で、世襲制が基本 『訳司統譜』(やくしとうふう)に家系図
・しかし次男や、娘の系統・関係図は記述なし 記述されていない唐通事の関係者は多数
・彼らは、清国によって滅ぼされた明から、逃れたり、新天地を求めて大陸各地へ離散
そこから、貿易をするために日本にやってきた人たちの末裔
●祖父と頴川家の歴史
・祖父は、五島・黄島の生まれ 幼少時に親類の山下に養子と聞く
・どうやら早くに稲佐に転居していたようだ
・「五島黄島郷土史」がある 1994年に発行 黄島出身の教師が執念で書き上げた
・過去帳を基に、当時の全戸の家系図も作成 私の母、きょうだいも正確に記述
・その中に、祖父の実母と養父母の名前がある
・どうやら、頴川であるようだ
●五島・黄島
・黄島は周囲4キロ 現在の住人40人 全盛期は1000人を超えていたことも
・クジラ漁で栄えた 頴川は、クジラ漁の網元として活躍
・クジラ漁は1736年から始まる 生月の益富組によって
・明治以降、東洋捕鯨(のちの日本水産)が事務所構えた
・母船も来島するなど、活況 操業は1932年(昭和7)まで続いた
「遊廓」跡も 2軒あったとのこと
・母親は一時数か月住だけ子ども時代に住んだことがあり、クジラの解体場所を見ている
・働き口求めて住み着いた人もいたようだ 狭い島だが、姓が多彩なのが特徴
・祖父の弟が、黄島漁協の組合長をしていた
●なぜ唐通事の名前が黄島に
・なぜ、黄島に唐通事の名前の人が? それも94年当時で2軒 現在はいない
長崎の民間の研究者は、「黄島にいたというのは初めて聞いた」
・郷土史家・原田氏によれば「ありうる」 五島藩が召し抱えていた
・「五島編年史」に、五島藩が複数の「頴川」はじめ、唐通事を召し抱えた記録あり
・「五島編年史」には、唐船はじめ、朝鮮や露・仏・米・英の船など、続々漂着の記録
・江戸幕府が、密貿易の取り締まりや、沿岸、離島の警備のため黄島に「遠見番」置いた
・中国の寧波(ニンポー)、舩山群島、台湾から長崎へ来航する唐船、オランダ船の航路
・対馬海流がその航路に流れている 五島は海の「ジャンクション」
・五島・福江には倭寇の頭目「王直」の拠点・根城
六角井戸、明人堂、唐人町跡など残っている
・鎖国政策の下での長崎貿易を厳格化するための重要拠点の一つ 野母崎、女島と共に
・座礁、沈没事故などによる積み荷の流出、島への漂着の通報、処理、密貿易の監視など
頴川丑之助が、長崎へ唐人を送り届けている記録が「五島編年史」にあり
福江に在住していた可能性 福江から、随時、黄島に来て仕事をしていた可能性
・祖父の家系図と、それら唐通事の名前が記録として結びつかない「ミッシングリンク」
・ただ頴川の名前は陳以外にあり得ない 民衆史の記録として残っているのか
●「陳さん世界大会」
・陳氏を始めとした中国の祖先を祭り、アジアの華僑が毎年集まる大会あり
・通称「陳さん世界大会」
・昨年、フィリピンのマニラで 1200人参加 日本の華僑も 私も同行
・東南アジアの華僑には、政財界の有力者がいるとのこと
・3泊4日で、大宴会の連続 懇親と、ネットワーク作り ビジネスに生かす
・各国に団体 団体名に「頴川」の文字が組み込んでいる所も複数
・今年は香港で開催
●日中交流の時空間
・偶然知った、唐通事の一家系と祖父の姓の共通点から、ファミリーヒストリーを追跡
未解明な点がまだたくさんあるが、追跡する中で見えてきた、国境を越えた日中の
交流の物語が次第に点から線となって見えてきている
遣唐使、空海、鄭成功、王直、孫文、唐人貿易・唐人屋敷、上海航路。。。。。etc