「『長崎絵師川原慶賀の魅力』」
 
1786年頃に長崎で生まれた川原慶賀は、長崎絵師と呼ばれる画家のひとりであった。 

おそらく有力者の引きで出島への出入りが許され、注文に応じて絵を描いた。
写実性に優れ、師匠、石崎融思から南蘋派など様々な技法を学んだが、慶賀の作品を
特徴づけているのは、細部にわたる正確な描写である。慶賀は東インド会社の解散前後に
出島に滞在したヤン・コク・ブロンホフやヨハン・ファン・オーフェルメール・フィッセルから
注文を受け、納めた作品は現在、オランダ・ライデンにある国立民族学博物館などに収蔵される。
さらに、新たに東インド政庁管轄下になった出島に、最初の医官に任命され1823年に来日した
陸軍外科少佐フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトから多数の植物画の注文を受けた。
 
 慶賀の植物画
  シーボルトは任務として、従前の医務と共に、日本の自然、歴史などを調査が加わった。
  植物の調査では、標本、生きた植物、それに植物画を主に収集した。帰国後の研究に役立てる
  ためであった。シーボルトは、植物画を描く技量を有する助手派遣を政庁に要請するが、同時に
  彼は長崎絵師に多様な植物を描ける人材がいることを知った。その人こそが川原慶賀だった。
  画業心得のある助手ヴィルヌーヴ(Carl Hubert de Villeneuve)がシーボルト来日2年後の1825年に
  長崎に到着した。シーボルトは、ヴィルヌーヴ到着に先立って慶賀に植物画の作成等を指導した
  ことが、「シーボルト植物図譜コレクション」から推測される。 
  ヴィルヌーヴは、植物画制作に優れた技量を持ち合わせていたと推測される人物だった。しかし、
  彼は自らの技法を含めヨーロッパの植物画の技法を慶賀に強要することはなかったものと思われる。
  ヴィルヌーヴは慶賀が描いた作品の余白に、慶賀が描かなかった果実や花の解剖図などを
  描き入れていった。
  慶賀の植物画はその描き方などから4期に区分することができよう(付表参照)。
 
[前期]
   シーボルトに出会う前に描かれた植物画。その一部が、現在オランダの国立民族学博物館に
  収蔵される、コク・ブロンホフのコレクションのなかにある。
 
[第I期]
   シーボルトの指導を受けて描かれた植物画。ヴィルヌーヴ到着までの2年間、シーボルトは
  慶賀に植物の観察と描き方を指導したと推測される。この間、慶賀は植物の観察の仕方や描き方を
  学んだ。植物の表現に正確さと深みが加わった。
 
[第II期]
   ヴィルヌーヴの指導を受けた時期の作品。ヴィルヌーヴは慶賀の技法を尊重し、
  画作の洋風化やそのための技法は強要はしなかった。彼は、余白を借りて慶賀が描かなかった
  果実や花の解剖図などを加えた。
 
[第III期]
   シーボルトやヴィルヌーヴの指導を受けた後の慶賀の作品。全般に自由闊達で、独自性が
  表出されている。
 
 再評価されるべき慶賀作品
 
  植物画家としての慶賀の高い評価が定着したことは喜ばしいが、他の慶賀作品をその影に隠れて
  埋没させてはいけない。
  慶賀の作品の大半は、注文に応じて描かれたものであり、慶賀自身の自発的な衝動によって
  描かれたと考えられる作品は知れてはいない。しかし、注文に応じて描かれた作品とはいえ、
  なかには高い独創性を極めた作品も少なくない。
  植物画以外の作品として、「長崎眺望図」、「唐人・紅毛人図」、「永島キク刀自像」、「天神図」など
  を上げたい。
  最近所在が明らかになった、「蘭人絵画観賞図」は、その豊かな人物描写に驚かされる秀逸作である。