「明治維新から終戦まで、長崎の旅館の代表格・上野屋の栄光と悲惨」
 
はじめに
 長崎に魅せられて50年。堀憲昭氏が1期生だった東京外大・中嶋ゼミの5年後輩
 幕末・明治維新で長崎が国際交流・人物交流で果たした役割の大きさを痛感

 森山栄之助(通詞)、福沢諭吉、勝海舟、明治天皇、西郷隆盛、山縣有朋
  時代をリードする偉人たちをカネと情報でサポートする
  女性が賢く、たくましい。男を立てて、やる気にさせる術に長けている。
 
華麗なる閨閥づくりー長崎の旅館・上野屋 家系譜
    上野時次(佐賀出身の貿易商人)の次男、弥平次が1868(明治初)年に毛利公別邸を入手して
    旅館を開業。初代弥平となる。

 1872(明治5)年、天皇の初めての行幸の折、長崎では上野屋を宿泊所にする(注1)。
 1877(明治10)年、西南戦争(2〜9月)の時、政府の旅団本部が上野屋に置かれる(注2)。 
 1887(明治20)年、弥平次没。弥平次の弟(3男)、兵太郎が2代目弥平となる。
 1891(明治24)年、弥平次の娘、徳子(1869〜1955)が兵太郎の嗣子(跡継ぎ)に。
    2代目弥平が長崎市旅館組合長となる。
    徳子は中田季三郎(1864〜1933、秋田県岩城町出身の外交官。87年に東京高等商卒)と結婚。
    季三郎が上野家の養子になり、徳子は4女3男(最初女ばかり4人、次いで男ばかり3人)を生む。
    季三郎は92年にサンフランシスコ領事館書記で赴任、のちドイツ公使館書記、シドニー総領事
    などを経て、1910年に宮内大臣秘書官、式武官を経て大膳頭に。1929年に退官後も青山の
    大邸宅に住み、33年に死去。浅草・言問橋のそばに季三郎が建てた包丁の石碑がある。        
 1907(明治40)年、「五足の靴」の文士5人が上野屋に宿泊。与謝野寛が木下杢太郎、北原白秋、
    吉井勇、平野万里の4人を連れて7月末から8月19日まで九州を旅行、その紀行文を新聞連載し、
    南蛮文化、キリシタンを日本文化として「再発見」し、文学界に広く影響を与えた。芥川龍之介の
    キリシタン物がその典型例。
 1912(明治45)年、2代目弥平が新館を総3階建12室に大増築。
 1918(大正7)年、2代目弥平の兵太郎没。妻のソノが継続経営した。
 1927(昭和2)年、ソノが亡くなり、徳子が3代目弥平となる。
 1933(昭和8)年、季三郎・徳子の長男、太郎(1906〜1942、東大卒。日本アルミニウム庶務課長)が
    父の死を機に4代目弥平を継ぐ。
    太郎の妻の松子(1911〜)は長野の豪商、御酒本(みきもと)徳松の3女で日本女子大英文科卒。
    その子供は3女1男、佳子(1935〜)、泰子(1936〜)、明子(1938〜)、邦夫(1940〜)で、3女は嫁ぎ、
    邦夫はブリヂストン自転車に就職したあと、埼玉県内の市役所職員に なり、上野家の親類縁者の
    面倒を見る。「人柄がよく、マメで家事万端、何でもできる。頼りがいのある人」(西尾談)。
 1939(昭和14)年、上野屋に1916(大正5)年から勤務し、27年から番頭(支配人)を務めた辻田寅次郎
    (1889〜1984)が退職(注3)。
 1942(昭和17)年、太郎が沖縄の離島のアルミ工場に行く途中、輸送船が爆撃されて戦死。
 1945(昭和20)年8月9日、原爆で上野屋は全焼。3男の三郎(1913〜45。東大卒)が勤務
    先の三菱造船所で被爆死。新婚3か月だった妻も自宅で被爆して1か月後に亡くなる。
    上野屋は消滅。上野家の者はその後、誰も長崎に住んでいない。
    徳子は33年に4代目弥平を長男太郎に継がせてから長崎と東京(青山)を往復していた。
    原爆の時は東京にいて無事だったが、青山の邸宅も空襲で焼失し、團伊能・美智子の世話で
    東京・自由が丘の借家に住んでいた。徳子の次男、二郎(1911〜46?)も肺病を患って病弱だったため、
    徳子と一緒に住んでいた。二郎は長崎の音楽専門学校卒で、妻の康子(1919〜)が献身的に
    看病していたが、戦後まもなく死亡、泰子も間もなく再婚し、上野家と縁が切れた。
 1955(昭和30)年、3代目の徳子が自由が丘で死去。娘たちが交代で面倒を見ていた。
    とても気丈な人で、占領期に日本人が米兵に卑屈になっているのを厳しく叱っていた。晩年は美声の
    長崎弁で民謡や小唄をよく歌っていて、子や孫たちが喜んで聴いていた。
    青山墓地の季三郎の墓に一緒に入っている。
 
 (注1)明治天皇(1852〜1912)の行幸は明治5年から18年にかけて計6回、それぞれ1〜2か月かけて
    全国を巡回している。江戸時代までの禁裏の奥深くに閉じ籠り(閉じ込められ?)決して外部の者には
    「見えない尊い人」から「国民に広く接する」ことで、近代日本国家の統治者の代表という形で
    「見える化」した政治的な仕掛けが全国巡幸だった。仕掛け人は大久保利通(1830〜78)。その第1回は
     5月23日に品川沖から軍艦で伊勢、大阪、京都、下関、長崎、熊本、鹿児島、丸亀、神戸をほとんど
    海路で歴訪して、7月12日に帰京した。
    巡幸の案内役は西郷隆盛(1827〜77)。この巡幸で天皇は西郷を「比類なき優れた軍人指導者」と信頼し、
    7月19日、西郷を陸軍元帥兼近衛都督に任じた。当時、岩倉使節団が不平等条約改正の目的で欧米を
    回っている時で、国家としての外交権を確立するため香港、上海に領事館を置いた。
    翌73年に岩倉使節団が帰国し、北京に公使館を置く。
 (注2)西郷軍(3万人)が熊本城を攻める頃、政府軍は軍港・長崎に旅団本部を置いた。旅団は第1〜3旅団に
    別働第1〜5旅団まで最大期に 約8万人。総督は有栖川宮織仁親王、征討総督府参軍(総司令官)に
     山縣有朋陸軍中将、川村純義海軍中将。
    日本の最後で最大の内戦は死者が政府軍で6400人、西郷軍で6700人。なお西郷が51歳で自決して
    西南戦争が終わった翌78年、大久保利通が暗殺される(49歳)。
 (注3)番頭だった辻田が戦後も長い間、徳子とその子供たちの面倒をよく見ていた。戦後何もない時に團伊能が
    お古のコートを上げたら感激して、 いつも礼服のように着ていた。戦後、長崎の浜の方に「昭和閣」という
     旅館を建てて、上野家ゆかりの人達が長崎に行くと、そこに泊まっていた。
    辻田家一族は長崎でも有力者が多く、銀行や鉄道関係の会社経営者や役員をしている。
    寅次郎の息子、■二郎(1932〜2017?)が学習院に入って、團珪子と同級。大変な美男子で学校でも
    評判だった。
 
    上野季三郎・徳子の娘たち(長女が早世したため5女、の説もある。娘はすべて女子学習院に入れた。)
 
    長女、英子(1899〜):服部時計店創業者、服部金太郎の長男、服部玄三(1888〜1959)に嫁ぐ。
    玄三は2代目社長(1934〜46、公職追放で引退)。英子の晩年は痴呆症が進んで自宅の座敷牢に軟禁状態
    だったとか。3代目には玄三の弟、正次(1900〜74)が就任して世界企業に育てる。
    玄三の長男、謙太郎(1919〜74)が4代目社長になるが、わずか1か月で急逝、次男の禮次郎(1921〜2013)が
    5代目(74〜87)を継ぎ「世界のセイコー」王国を築き、長く院政を敷く。正次の長男、一郎(1932〜87)が
    セイコーエプソン初代社長となり、政財界から期待されたが、ゴルフプレー中に急死。
    セイコーの6〜9代目社長は服部家以外の人間で、この間、禮次郎が会長として実権を握っていた。
    謙太郎の次男、真二(1953〜)が禮次郎の養子となり、2010年から10代目社長となり、禮次郎は名誉会長に。
    禮次郎のワンマン体制と禮次郎の元秘書の「女帝」ぶりに反対した「お家騒動」だったが仕掛けたのは
    メーンバンクのDKBだった。
 
    次女、富美子(1901〜):外相、首相を務めた加藤高明(1860〜1926)の次男、厚太郎(1895〜1959)に嫁ぐ。
    母は岩崎弥太郎の長女。厚太郎の少年期には自宅に居候していた五島慶太が家庭教師を務めた。
    厚太郎は東大政治学科卒で、父と同じく三菱合資会社に入社、オックスフォード大学に留学。
    三菱銀行や関連損保(現・東京海上)役員を務める。3男1女がいる。
 
    3女、米子(1903〜):侯爵家の佐々木行忠(1893〜1975)に嫁ぐ。
    行忠の祖父、佐佐木高行(1830〜1910)は土佐藩出身で山内容堂の側近として藩政を指導、戊辰戦争の折に
    長崎奉行所を接収し、明治初めには長崎の司法統治を担当した。新政府で司法制度の整備に貢献し、
    明治天皇の信任を得て司法、工務から天皇家の相談役・教育係を担当し、枢密院顧問官となる。
    孫の行忠は学習院から京大・東大で学び、在学中の1918年から貴族院議員となり、37〜44年に貴族院副議長、
    42〜46年に國學院大學長だったが公職追放にあう。51年に伊勢神宮大宮司、59年から神社本庁統理、
    国学院大理事長、学長にも復帰した。神道界の中心人物。
    夫妻の長男・行美は東大理学部教授で住友財閥の16代目、住友吉左衛門友成の長女と結婚し、
    その長女・美枝子は作家、串田孫一(1915〜2005)と結婚し、その長男が俳優兼演出家の串田和美(1942〜)。
    次女は東大初の物理学者で夫と金沢大学教授をしていた。3女(?)の佐々木玲子は奈良在住の彫金師。
 
    4女、美智子(1904〜88):学習院高等部を卒業した1922年、三井財閥の総帥、團琢磨(1858〜1932)の長男、
    伊能(1892〜1973)に嫁ぐ。見合い写真だけで合意した。伊能はフランス留学から戻って間もない東大助教授
    (西洋美術史専攻)だったが、父の暗殺(1932、血盟団事件)で三井財閥の経営に関わり、病気で退職。
    戦前・戦中は国際文化振興会理事を務め、戦後は郷里福岡の長女の嫁ぎ先、石橋家(ブリヂストン)の支援を得て
    貴族院、参議院の議員となる。55年に衆議院に落選後はブリヂストン自転車社長、プリンス自動車(現日産)社長、
    九州朝日放送社長などを歴任した。

    伊能の弟、勝磨(1904〜96)は発生生物学の権威で、都立大学長、日本動物学会会長、日本発生生物学会会長
    などを務め、87年文化功労者。

    伊能の長男の伊玖磨(1925〜2001)は日本を代表する作曲家。再婚した和子との間に男2人。長男、名保紀は
    群馬大教授(西洋美術史)、 次男、紀彦(1956〜)は建築家。

    長女の朗子(さえこ、1927〜94)は45年3月、学習院高等部の卒業を待たずに石橋家の御曹司、石橋幹一郎
    (1920〜97)に嫁ぐ。47年に長男・寛を生む。

    次女の珪子(1932〜)は55年に学習院大学を卒業し、国際文化会館(松本重治理事長)に就職して職場の
    ホテルマン、西尾和久と駆け落ち結婚。
    男の子2人を育てながら国際日本語普及協会(AJALT)を創設して長く理事長を務め、現在は会長。