「長崎絵図帖の世界」
 
 今回の講師は、楽会メンバーの大井昇さんでした。
演題は「長崎絵図帖の世界」。配布資料をそのまま掲載しますので、ご参照ください。
膨大な資料を読み解かれ、ここまでまとめられた大井さんの努力と情熱に、改めて深甚なる
敬意と感謝を捧げます。
 
 
1.はじめに
  わたしが長崎楽会に入れて頂いたのは2006年夏、記録を調べると今まで10回もこの例会で
 話をさせて頂いた。
 このうち4回は長崎の絵図に関することで、今回の話に幾分ダブル部分もあるのでお許しを
 頂きたい。ということで、この会さらに洋学史研究会のお陰で本が出来たことは確かである。
 まずは、なぜこの本を書いたから始めたい。
 
2.長崎諸役所絵図帖について
 * 正確には本のタイトルは「長崎諸役所絵図帖、関連する絵図帖と長崎絵図の世界」で、
  「長崎諸役所絵図帖」が 主体であること。
 *「長崎諸役所絵図帖」とは長崎奉行所が管理の目的で管轄下の施設の絵図面を作成、
  絵図帖または巻物のこと。 このような絵図帖はなぜか他には例がない。
 * 見つかった絵図帖は、表に示すが、長崎歴史文化博物館(2点は国重要文化財)、
  国立公文書館(2)、三井文庫(2)、東大史料編纂所、国立国会図書館、西尾市岩瀬文庫、
  福岡市博物館、東洋文庫の13点でうち4点が長崎にある。
  この他に定義からは外れるが参考絵図帖があり、これも重要である。時期的には安永(1775)
  ごろから安政(1856)にまたがる。古いものが長崎にないのは明治以降逸散しため!
 * 今まで見つかったもっとも古い絵図帖は東洋文庫蔵の安永(1775)ごろで、長崎奉行所の
  長い歴史を考えるともっと古いものはないのかと思う。
 * わが国での公文書管理の始まりは6代将軍吉宗の享保8年(1723)と言われている。
  「長崎市中の訳くわしく相認候書物がないので、町年寄に申付け、新規に組立」と石谷備後守
  在勤に長崎市中明細帳(市政要覧のようなもの)が出来たのは明和2年(1765)でこの中に
  諸役所との項目がある。 
 * したがって、今まで見つかったもっとも古い絵図帖 安永元年(1772)ごろとは数年の差がある。
  ぜひこの年代の諸役所絵図帖があれば見たい。しかし諸役所絵図帖というものの全体像は
  変わらないのでは?
 
3、 3点の特異な絵図帖についての解説
 3.1 神戸市立博物館蔵(池永コレクション)の長崎惣絵図、両奉行所家鋪、唐人家鋪図、
    阿蘭陀出嶋図の4枚のパッケージ
  * 今まで紹介されたことがない。
  * 宝永3年―宝永5年(1704−1708)と絞り込める。絵図帖の出現する安永の70年前、
   『長崎実録大成』(宝暦10年(1760))の図より50年も古い。  
  * この時期の湯殿・雪隠は屋外にあるのが特長。
  *江戸から長崎へ派遣された上使へのお土産ものと推定(萩原近江守?)
  *保存もよく虫食いなどなし。
  *時代の古さ、情報量の多さとも超一級の史料 
 
 3.2 旧役所図 もりおか歴史文化館蔵(南部藩主 旧蔵品)
  * 絵巻の最後に次のような文(抜き書き)が書かれており一驚する。
 
   此図は当崎の名ある所を集記したるものなり。
   従公義図職を蒙り当時七十歳に逮(およぶ)とも日々
   相勤来る。然ルに老僧二十余年を歴て再来
   なこりをしたひ老眼を不顧して此図を
   書て帰国の贐となす。
                              崎陽勝山町住
   寛政三辛亥歳                  雪翁軒一釣
        七月日
               奥州南部大槌
               古廟山観流菴
                              慈泉老師
 
  *     製作年代、製作の経緯、あて先などが明確しかも美品である。
  *     はなむけに受け取った慈泉は秀井慈泉といい全国行脚の木食僧と長崎俵物宿・問屋の
     古里屋佐兵衛の二つの顔を持つ人で地元での著名人。
  *  長崎と南部藩(大槌)との関連
 
 3.3.『文化五辰六月御改・長崎諸官公衙図絵図面』長崎歴史文化博物館収蔵
   作成年が書かれている絵図帖はこれしかない。しかし絵図を詳細にみるとこの絵図の原図は
   文化5年(1808)に作成されたが、それを天保14年(1843)ごろに改訂されたものと判断せざるを得ない。
   その2ケ月後の文化5年(1808)8月15日にフェートン事件が起こり奉行の松平図書頭は八月十七日に
   責任を取って切腹している。推測であるが、この大事件のどさくさで忘れられ絵図帖は長年放置されて
   いたのではないか。天保の改革時の伊沢美作守在勤の節に気付いたが、この34年の間にかなり
   大きな変化があったのでそのままでは使えず、そうは言っても廃棄することは、出来兼ねた。
   そこで文化5年(1808)の絵図の両役所、出島、唐人屋敷、御薬園などをかなりの貼り紙や胡粉で
   手直しし、長屋居住の地役人の変化などを朱書きで訂正したものと考える。
   作成年が書かれている絵図帖はこれしかなく、しばしば文化5年(1808)作成として取扱われ数々の
   誤解を招いており残念である。
 
4.絵図についての幾つかの話題
 4.1.御船蔵 ケンペルが長崎で目立った建物といった。5棟の蔵が3棟に。
 4.2 出島 吉宗の洋馬の注文 出島での訓練施設。門前の雪隠
 4.3 唐人屋敷
  * 水に関すること、元禄、宝永では水があふれていたが段々と干上がってきた。
  * 天保6年の唐人騒動、台場はどっちに向いているのか?
  *付:岩原の名水
 4.4.牢屋(籠屋)
 *桜馬場の牢屋
 *桜町の牢屋 揚り屋と溜牢
 *小島牢 浦上4番崩れのキリシタンを収容
 4.5 片淵の御組屋敷とその後(時系列)
  1.天保の改革(天保12年―14年)で長崎奉行は1人制となり与力・同心を置き家族同伴となる。
  2.奉行の伊沢美作守、高島秋帆を逮捕、江戸へ送る(天保13年)。
  3.フェートン事件のあと非常時に備えてとってあったこの土地3000坪+に組屋敷を作る(天保14年、1843)。
  4.奉行の伊沢美作守が鳥居燿蔵とともに失脚(弘化2年、1845)
  5.天保の改革が終わり、嘉永元年(1848)には取り壊し。手附出役に戻る。
  6.乃武館、英語稽古場、長崎軍団仮病院、長崎監獄と目まぐるしく変遷
  7.ポンぺの弟子であった松本良順、戊申戦争のあと投獄されるが、その後新政府に仕え  明治10年の
  西南戦争では軍医総監として長崎軍団仮病院を指揮。
      以上

※調査した長崎諸役所絵図帖のリストは下記ファイルをご覧ください。
       長崎諸役所絵図帖リスト