温泉山 歴史散策資料
ふるさと見聞 隠れた温泉史
雲 仙 史 探 会
執筆者 西 久
海
高野山、比叡山より百年もはやく、僧、行基により開山。千三百年の歴史を持つ雲仙は、当時、三大霊場として栄えていた。
隠れた雲仙史の一つとして、温泉山縁起書の一部を紹介します。 縁起書とは、その寺の沿革史のことで、古い歴史のある寺
には、必ずその寺に保存されてある古文書のこと。
一. 原本、温泉山縁起書の紹介。
この古文書のうち、堂塔建立、寄進田の項によると、
寄進田
大宝元年(七○一)二月十五日
塔建立
大宝元年十一月二日
塔三
文武天皇御願也
肥前国高来郡本地領家共、一坊三五二彼杵郡内三百五十町領家分寄進。
肥後国山本郡内七百町領家分寄進。坊二七二、和同二年八月二九日。
以上の記載から始まり、その寄進は西日本全域に及んでいます。
一部を紹介しますと、信濃国、伊予国、筑前、筑後、肥後、豊前、土佐、加賀、美濃、和泉、周防、出雲、但馬、能登、丹後、
讃岐国等、郡名、寄進田数量、日付まで正確に記録されている。
この項のまとめとして
温泉山関係分
・天皇七代御願也
(天皇の命で建立の意)
・当山坊数三千三百七十九坊也、一院一所一九所也
・仁寿元年(八五一)十二月十三日寄進貞数大概了
・温泉山寄進田
二千七十五町
・温泉山建立事
文武天皇御宇大宝元年(七○一)繁昌之事至仁和年中百八十五年也
慶長二年(一五九七)二月十七日
古書伝
妙泉坊九代
領尭珍 在判
大定院三十代
大僧正法印
光海 在判
とあり、千三百年前からの記録としては、寄進の場所、数量に至るまで非常に正確ある。これは当時、大宝律令が発令され、
国分寺の建立など、天皇の権力が全国に及んだ時代で、記録も正確に記載されたと思われる。
注. 年号( )内の数字は西暦年で、筆者補記
岳女人堂跡
昔、山岳修験霊場では、女性の登山参詣が禁じられていた。そこで麓に女人だけの参詣堂が設けられてあった。
当時、雲仙は名高い霊山で、千人もの僧が修業に励んでいたといわれている。
雲仙岳女人堂は、現、千々石岳入口バス停の近くにあり、女人堂跡と書かれた石柱と、梵字を刻んだ自然石が残っている。
伝承によると、ここの堂には、当時、婦人の参詣者が群をなし、昼夜、読経の声が絶えなかったといわれる。近くに磨崖仏
もある。
当時の参詣路は四つありその中でも最も早く開けた参道が千々石路で、表参道であった。江戸時代まで、寺発行の手形が必要
であった。
四つの参詣路
島原路 安中村→深江馬場→末宝→小地獄
北目路 大三東→一本松→舞岳麓→池ノ原
西目路 千々石→木場→高岳麓→児落→別所
南目路 鮎帰→湯河内→西有家→矢筈→札ノ原
女人堂に関わる哀話が各地に残っているが、雲仙には札ノ原、”七日廻りの石”の親子悲話がある。高野山の”かるかや堂”
の悲話は全国的に有名である。
最近まで、県営観光バスのガイドさんが、”身の辛や女人堂跡初しぐれ”の句を紹介していた。
梵字(ぼんじ)→ インドの古い文字
雲仙鬼石
雲仙の鬼石は、テニスコートから、旧八万地獄に通じる散歩道の、地獄寄りの雑木林の中にあり、高さ七メートル、底部三十
メートルの大石である。
山領の鬼石にくらべ、ひっそりと忘れ去られた存在である。
二、三人の人から「子どもの頃、鬼石という大きな石の所で遊んだことがある」と聞くくらいで、殆ど知られていない。
東西南北を、十二干支の卯(東)、酉(西)、午(南)、子(北)で表わし、小地獄は木指名、別所はミョウバン浜と表記された、
古い雲仙の絵図面に、鬼石の場所が明記されてあり、温泉山縁起にも、「此の山ノ本主、歓羅は、四面ノ大鬼ナリ。行基菩薩二遇
ヒ奉リ、種々ノ問答アリ。又、鬼アリ、男鬼ノ名ハ、空仙鬼、女鬼ノ名ハ、難林王ナリ。此の鬼々ヲ加持スレバ、即チ鬼石トナル」
と記されてある。
双方の大石の形をみて、山領の鬼石は、男鬼の空仙鬼、雲仙の鬼石は、女鬼の難林王ではないかと、同行した人たちと話した
ことである。
行基洞と座禅石
奈良時代の仏教の特色として、修業を主とした山岳仏教の時代でもあった。
その修業の一つに、回峰修業がある。峰々にある御堂を巡り修業するもので、雲仙も三岳五峰を巡って修業しており、その跡が
各峰に残っている。
特に、小地獄谷の一切経堂は、今でも修業者が後を絶たず有名である。
その一切経堂から、川の流れに沿って、下流に約二十分。その後かなり険しい急坂を登ること約二十五分。
その間、道らしい道は無く、木立の幹に結んである目じるしのひもを頼って登ると、そこにそそり立つ巨岩の根元に、大きな三
つの洞窟がある。そこが行基菩薩が修業されたと伝えられる行基洞である。
その入口には、今は小さな石段があるが、昔はカズラがさがっているだけだったとのことで、昭和の初め頃は、縄梯子があった
そうである。
一般に、ここの所在は余り知られていないようである。
洞窟はかなり広く、高さも四、五米はあると思われる。洞内には信者の皆さんによって建立、寄進の行基石像が正面に安置され
てあり、その傍に、伊予、土佐在と台座に刻まれた小さい石像がある。当時、四国と深い関わり合いがあったことを物語っている。
座禅石は、行基洞の巨岩のすぐ裏側にあり、岩壁に囲まれた舞台を思わせる、小じんまりとした斜面に、平らな石が点在している。
岩壁には、仏像を安置したと思われる祠が残っている。
温泉山石書法華塔碑銘
満明寺境内入口の手洗い石の傍に、左肩が欠損した平らな石碑が建っている。
「伊勢渡海郡恵純謹建 皇和文化十年(一八一三)十一月」 とある。
碑文を要約すると、渡海目標の山で、日本山と呼び、天皇勅願による僧行基開山の由緒ある霊山と称えたものである。
このことから、伊勢、熊野の僧との深い交流が察しられる。
一方、伊勢、熊野の僧と雲仙の僧とが、一緒に唐に渡海していたことを刻んだ碑が、大阪、泉南市の林昌寺という寺に残って
いる。
「渡海行人、肥前国之住温泉山祐海上人 永録八年(一五六四)ニ月二十八日」とある。
渡海碑が現存するこの林昌寺は、真言宗御室派で、聖武天皇の勅願寺として、僧行基が開創、旧山号を温泉山と呼び、雲仙の
祐海上人が、中興の祖と伝えられている。
ここ、満明寺と相通じていることがわかる。
有明海沿岸には、玉名市報恩寺跡にも渡海碑が残っていると云われている。
加津佐の岩戸山も、当時、海辺の修行道場として、補陀落(観音菩薩)渡海信仰の地と云われている。
熊野、那智の海辺からの出発渡海は、平安時代から江戸時代まで、二十名の僧が渡海したと伝えられている。
木花開耶姫神社(このはなさくやひめ)
原生沼周遊散歩道のテニスコート寄り入口から、約十メートルの所に鳥居がある。そこから急な坂の参道を約五十メートル登る
と開耶姫神社がある。
一般に道祖神とも呼ばれる神である。男女和像の神像で、陰陽の形の石や、自然石をまつる縁結び、家庭和合、子宝授けの神と
いわれている。
また、防疫、外来の悪霊をさえぎる神ともいわれている。
古老の話によると、地元では、昔からほうそう(天然痘)を防ぐ神様ということで、御参りしていたとのことである。最近、
地元有志の方が、皆さんに呼びかけ、歴代の寺の馬場、古湯の自治会長、古湯の熱心な人が世話人となり、設備が進んでいる。
境内には、昔からの由来を書いた立札が建ててある。
又、年一回、自治会、老人クラブの皆さん、雲仙公園事務所からも清掃奉仕に参加されている。更にその時、温泉神社からも、
祝詞が奏上され、参列者の皆さんによる玉串も奉納がなされている。
新しいアイデアとして、お参りの人から、開耶姫に因んだ短歌を奉納してもらい、その歌を世話人が短冊に書いて、参道の枝々
にさげてある。
意外に奉納の人が多く、すでに二百首を越えている。
男女の間の機微を、ユーモアたっぷりの表現で、機知に富んだ名作?ばかりである。口こみで知られるようになり、参詣のお客も、
増えてきたそうである。
坊主岩、坊主谷
有名な山伏修験の各地の霊山と同じように、雲仙にも、その一つである回峰修行の跡が残っている。
回峰修行とは、各峰にある修業堂を巡り、それぞれ異なった厳しい修法をするものである。
雲仙の山容は、仏像の蓮台のように、八葉のハスの華を表しているといわれている。
この修行のなかに、恐怖の「のぞき」と呼ばれる所がある。そこは、目の眩むような絶壁の先端に、先達の山伏が修行僧の身体
を縄でしばり、上半身を突き出し、谷底をのぞかせながら、谷に向けて、大声で自分を「懺悔」させるものである。
雲仙では、その場所を坊主岩、坊主谷と呼ばれ、昔、途中の道に「天竺」(インド)と書いた立札があったそうである。現在の
地図には、展望岩と書いてある。
場所は絹笠山の裏側にあたり、目の眩むような深い谷のすぐ下に、上山領があり、千々石湾、遠く大村湾、太良岳が一望にみえる
景色のよいところである。
雲仙役場支所うらの、絹笠山登山口から登るが、途中、道が崩れ危険な所があるので、必ずよく道を知った人と同行してほしい。
胎内めぐり、座禅石、坊主岩、坊主谷、回峰修行跡と新しく探るほどに、この霊場雲仙の全盛の当時が偲ばれてならない。
一夜大師
昭和の初め、空照という修業僧が、百日修行をしたところといわれ、当時、有家町見岳名の信者の人たちが、セメント、砂など
空照師を中心に、険しい道を石窟まで担ぎあげ、一夜のうちに、弘法大師像を完成させたという。
このことから、一夜大師の名がついたものである。
周囲の山容からみて、この巨石群石窟は満明寺全盛時代の、回峰修行跡の一つと考えられる。当時を知る古老の話から、この
空照師は、山伏修験の流れをくみ、回峰修行をしたものと思われる。
高岩神社参道、雲仙小地獄、宝原入口から登ると、神社との中間付近にある鳥居の左側に、小さな細い道がある。右上に高岩山
をみて、桧の植林の谷間を下ること約五百米、始めは緩やかだが、途中から、かなり険しい急な下り坂に変わる。すると、下方木
立の間から、修行僧立像の後姿が見え始める。石像の高さは、台座共約二米。見岳名の信者の人たちが、空照師を称えて建立した
ものである。
更にここから、細いけもの道を五十米ほど登ると、巨岩群が現れ、その中の石窟の一つに、大師座像が建立されてある。特に
この入口付近は、険しく、木や枝等を伝って、よじ登るほどの道である。
「入口に、西有家四国奥の院一夜大師」と書いた立札と、
奥の院岩大師御詠歌
ふみしめて のぼる御山の岩大師
慈悲の利益を残します
の立札がある。
尚、現在行われている最高の回峰行では、延暦寺の「千日回峰行」がある。
延四万キロ、一日平均三十キロ、比叡山の峰や谷を巡り、その間に断食、断水、不眠の行、更に一日八十キロの「京都大廻」
など超人的荒行が、行われている。
ふるさと見聞(九) 隠れた雲仙史 雲仙史探会 西 久海
知恩堂
雲仙回峰行と、その修業堂を紹介しているが、ここ知恩堂も、前述の行基洞と同じく、圧倒されそうな巨岩群が林立し、
そこの岩をくぐり抜けたところにある。
このくぐりを、胎内めぐりと云って、仏の胎内に入り、身を清め、心の安心を願うものである。
高岩山にも、その跡がある。各地の霊場にも見受けられ、特に奈良の大仏の胎内めぐりは有名である。
場所は、札ノ原小地獄バス停から、歩いて十分位の所であるが、人里離れた深山幽谷の世界が広がりささやかな庵がある。
今の知恩堂は、中興の祖である豊田カヨ尼僧である。霊感によって開山されたと云われ、当時、目のくらむような絶壁の途中
の畳三枚ぐらいの広さに、むしろ作りで雨露をしのぎ、修行されたとのことである。自分に厳しく、身体の極限までの、筆舌に
絶する荒行で、遂に霊感を授けられ、衆生済度に尽くされたという。
昭和四十四年、八十八才で逝去。今でも、カヨ尼僧の徳を慕って、各地から参詣者が後を絶たない。現在、毎月、一日、十五日、
と、カヨ尼僧の命日の二十四日は、近くに住まいの尼僧の縁類の方が、お祭りをされている。
行基菩薩墓と一乗院墓所
行基菩薩の墓は、一乗院墓所入口と、道路を隔てた真向かいの路地の奥にあり、苔むした質素な、かなり古い五輪塔である。
温泉山縁起には「御入滅ハ聖武天皇ノ時ナリ、天平勝宝元年(七四八)二月十五日、行年八十二御入滅、御弟子百余人、最智
法貴人等五人」とある。
一乗院墓所は、寺の馬場地区にあり、参道には大きな杉の木がある。
中興の祖、一世弘宥法印から、十七世淳海法印まで歴代住職の墓碑が並び、経文石の埋まった塚墓などが建立されてある。
参道入口には、”雲雀より 上に休らう峠かな”と刻まれた芭蕉句碑もあるが、この句は雲仙に立ち寄って詠んだものではなく、
奈良地方を旅した時の「笈の小文」という紀行文に出ている。
建立者は、小浜在の俳人彷州と一甫という人である。碑の裏に明和七年(一七七一)建立とある。
中興の祖、弘宥法印は、浜松から島原城主として、来島した高力摂津守忠房公の家臣、加藤善左衛門清輔(湯元ホテル御先祖)
の実兄で、忠房公の命により、温泉山再建のため、寛永十七年(一六四○)浜松の鴨江寺(現存)より招かれた方である。
しかし、残念なことに、荒廃した一乗院の再建で過労のため、二年後に遷化されている。
注・笈(おい)修験者などが、衣類・食器等を入れて背負う足のついた箱。
(雲仙にも)龍造寺隆信墓碑
昭和六十二年頃、雲仙観光通りを考える会(当時の会長加藤元俊氏)が、満明寺の裏山、現ゲートボール場横に散らばっていた
五輪塔の隆信墓石を集め、修復再建したものである。
案内標札によると
「龍造寺家は藤原鎌足の子孫が、鎮西八郎為朝に従って九州入りした武将を祖とする。隆信は五国二洲三十五万石の大守として、
南の島津、東の大友、西の隆造寺と九州を三分割する雄藩にした。
天正十二年島原地方を所領していた有馬晴信を佐賀の龍造寺隆信が攻め、島原市北門に鹿児島の島津氏の援軍を受けた有馬氏が
迎え討ち、此の地で龍造寺軍は敗退し龍造寺隆信は戦死した。
墓は高来の峰、温泉山のこの地である。」とある。
世話人の雲仙古湯、酒井店主の話によると、古湯有志により墓再建の話が出た頃、小浜商工会が、「地区起こしの資金配分」を
企画、この資金を古湯地区が、寺の馬場、新湯地区に呼びかけ、三地区の資金を拠出、修復再建したとのことである。
開眼供養の時は、龍造寺家の子孫、長崎戸石の澤田祐造氏も参列されたとのことある。
尚、隆信の墓碑は、各地に建立されてある。
渋江鉄郎著「島原一揆」によると、佐賀の願行寺、高伝寺、龍泰寺に遺骨が埋葬され、高来町の和銅寺、島原の護国寺には
供養碑が建立されてあるとのことである。
雲仙の三鈷の松(さんこのまつ)
普通の松は、葉が二本なのに「三鈷(さんこ)の松」は葉が三本に分かれている。この松は高野山にあるとだけ思われていた。
伝説によると、約千二百年前、弘法大師が唐(今の中国)での修業を終え帰国の折、「日本で最初の修業地を示し給え」とお祈り
し「三鈷杵(さんこしょう)」(修業僧の身体を守る役目をする法具で、弘法大師の座像を見ると、必ず右手に三鈷杵を持っておら
れます)を空に向けてお投げになり、帰国後、高野山の松の木に止まっているのが見つかったとされている。
そこで、三本分かれの葉を持つこの松を、三鈷の松と呼ぶようになった。
ところで雲仙は約千三百年前、名僧行基菩薩が開いた山で、全盛期には千人もの僧が修業に励み、西の高野山と呼ばれ、明治の始め
までは女人禁制の山であった。
比叡山、高野山、雲仙は天下の三山霊場といわれ、当時は各霊山の修験者の交流もあり、特に唐の人が渡日の際、雲仙の山が始め
に見えるということから、別名日本山と呼んでいたと「温泉山石書法華搭碑銘」の文に述べている。
雲仙の三鈷の松は開祖、行基菩薩が修業された雲仙小地獄の一切経堂に行く途中にあり、高野山の三鈷の松と同じく葉が三本に
分かれている。ここ一切経堂は今でも参拝の人が絶えず、滝の音と八百年を越すといわれる杉の巨木が立ち並ぶ深山幽谷の地である。
三鈷の松がこの地にあるのは高野山との交流が続いていたころ、雲仙の修業僧の身体の保護を願って、高野山から移植したのでは
ないかとも言われている。
千々石町女人禁制の秘話
今から千三百年前、雲仙は高野山、比叡山より百年も前に名僧、行基のよって開山。全盛時には千人もの僧が修行に励んでいたと
言われている。そのころ山岳修験霊山は、女性の登山参詣(さんけい)は禁じられ、麓に女人のため参詣堂が設けられていた。
霊山雲仙の女人堂は、表参道だった千々石町の岳地区にあった。婦人の参詣者が群れをなし、昼夜線香の煙と読経の声が絶えなか
ったと言われる。
女人禁制にかかわる悲話は雲仙札の原に「七日廻りの石」の母親と赤ちゃんの悲しい話が残っている。千々石町岳の女人堂には
「身の辛さや 女人堂跡 初しぐれ」の句が残っているが、いろいろ悲しいことがあったと思われる。
その一つ。この堂よりずっと麓の地区の人が「ハチロクさま」と呼んでいる小さな石室の石仏がある。名前の意味はわからないが
「霊験あらたか」な方なので花替えなどずっと続けているとのことである。
古老の話によると、昔々殿様とお姫さまと呼ばれる親子の二人は落人なのか、追っ手が迫り逃げ延びることができないと思い、
霊山の雲仙に保護をお願いするため登りだした。ところがここまで来て姫は女人堂までしか登れないと分かり、悲しみで足腰が動か
なくなった殿様は頭が混乱したのであろうか、自分の刀で娘を殺してしまった。地元の人が哀れに思い、今の所に埋めて供養したの
であろうと。
女人堂跡の周りの平らな所には武士を供養したと思われる小さな石碑が点々とあり遺骨も埋まっていたとの話も残っている。
終稿にあたって
「隠れた雲仙史」の紹介を始めて、あっという間に一年が過ぎた。
小浜町広報課よりこの依頼を受けた頃、同好の志で、この噴火を機に千三百年の歴史を持つ霊山雲仙の史跡を、改めて歩いてみて
は、との話が出ていた。
特に話題になったのは、余り知られていない史跡を中心に探しながら、歩いてみようということであった。そこで会の名称を
「史探会」とした。
地元の古老の方々を中心に月一回、その遺跡に精しい先達に頼み、数名で確認していった。回を重ねる程に、千三百年の歴史を
持つ霊山と呼ばれる意味が参加者の胸に切々と伝わってきた。
実はこの霊山のことで、もっと痛切に感じる出会いがあった。今まで思いもしなかった日本山岳修験学会吉野山大会に参加する
機会を得たことである。この会は日本学術会議に属し、奈良時代からの女人禁制の修験研究、また現在その伝統を守り、昔のまま
の修業者の集いである。
昨年十一月二十日から三日間、奈良県吉野町国立公園吉野ビジターセンターが会場であった。
ここでは、雲仙満明寺は、全国の霊山の中でも、特に高く評価されていたことである。
噴火のこの時期に、雲仙史の紹介がなされたこと、修験学会に参加したこと等天地の節理をしみじみ感じる次第である。