【浦上キリシタン資料館5周年 私が故郷に資料館を作った理由】
 
「浦上キリシタン資料館5周年 私が故郷に資料館を作った理由」と
いうタイトルでお話をさせていただきました。

5年という月日が長いか短いかは人によって違うとは思いますが、あっという間の5年間でした。

添付の「浦上キリシタン資料館5年間の歩み」はいままで夢中でやってきた五年間を振り返って
そのひとつひとつのイベントに対して制作したフライヤーを並べたフライヤー(笑)です。

そしてどうして私はこんなことをしているのだろうと思った時、
会員の植松三十里さんが作品を書くときのテーマは正しい評価を受けてない人に光をあてたいと
おっしゃっていたのを思い出します。その言葉が私の心にいまもぐさっと刺さっています。

浦上四番崩れという明治のキリシタン弾圧、原爆で虫けらのように死んでいった人々、
我がふるさと浦上にはそういう忘れてはならない歴史があると思い、それらをきちんと残して行きたいと、
光を当てていきたいというのが、私がこの資料館を作った理由のひとつです。

長崎県も、市も、教会もみんなそういうことをなさっていますが、
物足りなくて、私はいままではがゆくてなりませんでした
それともう一つ、私の亡夫三沢博昭がなくなる前に舌根癌になって
しゃべることができなくなっていたのはご存知だと思いますが、
したがって晩年の彼との意志の疎通はすべて筆談でしていました。

私の声は、当たり前ですが、喋れば消えて行くのですが、
彼の筆談はすべて残っているのです。捨てようにも捨てられないでいますが、
その筆談のメモのなかに
「お前はキリシタンの代表だろう、浦上キリシタン資料館を作らんといかん
世界遺産になれば、いずれにしても作らんといかんだろう、
だから世界遺産を一歩としたんだ」というメモがありました。

このメモも読めば読むほど意味深くて、私の重い腰をあげる原因の一つです。
確かに世界遺産になってから長崎はもちろん、色んな所の人たちから関心の手が上がっています。
講演下手な私ですが、浦上四番崩れについての講演や展示パネルをくれとか私達の資料館に連絡がくるようになりました。
これも浦上キリシタン資料館を始めたおかげだと思います。

添付のフレイヤーは小さいので読みにくいかもしれませんが拡大すれば、
ほぼほぼ読めるくらいまで拡大できます。
浦上キリシタンの不屈の魂と原爆を生き抜いて蘇った人々の魂は一つのものです。
そんなことを思って浦上キリシタン資料館を見ていただければ思います。

これが私の人生の後半のテーマです。もっともっと詳しくお話できればとおもいますが、
なかなか語り尽くせるものではありません。
私の命とお金が尽きるまでこれをテーマに暮らして行こうと思います。
皆様のご理解とご協力をお願い致します。

お話するチャンスを下さったこと心から感謝致します。

岩波智代子