「日本で初めての銅版画」

レポーター:渡辺千尋


<有家版銅版画「セビリアの聖母」>
1869年(明治2年)プチジャン神父がマニラで「聖家族」と共に発見。ローマ教皇へ献上したところ、下部に文字を記し、「日本にとって大切なものだから返すように」戻され大浦天主堂に二点とも保管されていた。現在はカソリックセンターに保管。
版画画面の下文字は「聖母マリア(古代よりという字を有する)その御影はフェルチナンド第3世がイスバリス(セビリア)を攻め落とせし時、聖堂の上部の壁に描きたるものなり。
古代よりの聖母 日本のセミナリオにて、1597年 」もう一点の「聖家族」には画面の下部に「Ariy1596年」と彫られている。これらの銅版画は島原有家町にあったセミナリオ内の画学舎に学ぶ日本人が西洋版画を模刻したものである。 

(疑問1)有家版「セビリアの聖母」が中国に渡り、1604年刊の「程子学苑」という中国版博物誌に木版画にて模刻されている。模刻の根拠は図柄、また下部の文字が同一であることによる。「日本のセミナリオにて、1597年」の文字もあるが、不思議なことに有家版にない鳩がいる。

(疑問2)元になった西洋版画はこれまで今のベルギーにあったゼローム・ウイリクス工房制作のものと信じられていたが図柄を見ると違い、別のバージョン版があった筈である。しかし、まだ発見されていない。 

(疑問3)銅版画(凹版)は専用のローラ式印刷機が絶対不可欠であるが、活版(凸版)用印刷機のことは報告書などには何度も登場するに関わらず、銅版用は一語もふれられていない。

[参考文献]
(1)1596年、ペドロ・マルティンス神父の「有家セミナリオ訪問記」月報。
「つぎに銅版印刷室を尋ねたが、そこは多くの画図の印刷が行われ銅版画の画室では、若い芸術家たちが彫刻刀を握って働いていた。」
(2)1592年3月16日、天草のコレジヨの院長フランシスコ・カルデロン神父の手紙。
「日本人少年たちの技術のレベルを知ることが出来るように、スペインから届けられた御絵に基づいて、こちらで刻まれた銅版画をお送りします。同宿と呼ばれるこの少年たちは、そんなに若いのに短い間によく上手にデザインし、送られてきた版画をみて、すぐに銅板を刻み、このような御絵を印刷します。今、送っているのは見本のためです。 」


関連年表

1534年   イグナチウス・ロヨラらイエズス会を結成。
1549 天文18年 フランシスコ・ザビエル、鹿児島に来る。
50 山口、京都 51日本を去る。
1552 天文21 ザビエル没。
1560 永禄 3 織田信長、今川義元を桶狭間で破る。
1567 永禄10 有馬領、口之津港に初めてポルトガル船入港。
1569 永禄12 フロイス、二条城で信長に謁見、布教の許可を与えられる。
1570 元亀 1 イエズス会の宣教師が天草で会議、カブラル布教長となる。
1573 天正 1 室町幕府滅亡
1576 天正 4 安土にセミナリオ、信長、安土城を築く。
1578 天正 6 府内にコレジヲ、臼杵にノビシャッド(修練院)
1579 天正 7 ヴァリニャーノ、来日。
1580 天正 8 有馬晴信受洗、有馬にセミナリオ。
1581 天正 9 スペイン国王フェリペ2世がポルトガル国王となる。
1582 天正10 天正3少年遣欧使節、ヴァリニャーノと共に出発。 本能寺の変
1583 天正11 イエズス会士、イタリア人画家ジョバンニ・ニコラオ来日。
1585 天正13 秀吉、関白となる。
1587 天正15 伴天連追放令。
1588 天正16 秀吉、イエズス会の長崎領を没収。南蛮寺閉鎖。
イギリス、スペイン無敵艦隊を破る。
1590 天正18 少年遣欧使節、帰着。初めて活字印刷機がもたらされる。
1591 天正19年 キリスト教布教禁止令。加津佐にて活字本。銅版画印刷
1592 文禄 1 ドミニコ会宣教師ファン・コーポ来日。肥前名護屋で秀吉に謁見。
1593 文禄 2 フランシスコ会宣教師来日。
有家セミナリオでテンペラ・油彩・銅版画が教えられた。(画学舎)
1596 慶長 1 スペイン船サン・フェリッペ号、土佐浦戸に漂着。 「聖家族」完成
1597 慶長 2 二十六聖人殉教(2月5日)。3月伴天連追放令。
「セビリアの聖母」未完? ルイス・フロイス、長崎で病没。
1598 慶長 3 豊臣秀吉没。
1613 慶長17 伊達政宗、遣欧使節、支倉常長、ソテロと出発。
1614 慶長18 外人宣教師退去命令。

 

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