三浦梅園の“長崎紀行”から 詩人としての、梅園の視線を追う
その著『歸山録草稿』の風光
三浦梅園(みうら ばいえん) (1723〜1789)享保8年〜寛政元年
・八代将軍、吉宗の時代(1716 〜1745)に生れる
・江戸中期の儒家で医者(家業)
・豊後の国東郡・富永村(現/安岐町富清)の人
◆名は晋(すすみ)字(あざな)は安貞。号/梅園居士(無事齋主人、また双子山人とも称した)
天文・物理・医学・博物・政治・経済に通じ条理学を提唱(※広辞苑)
“学問”は西洋によらなければならないことを早くから自覚し力説。
◆著 書・条理哲学の『玄語』『贅語』『敢語』(「梅園三語」とされる)
・経済論『價原』(価原)は有名
・文芸『詩轍』(漢詩文の日本人の手になる詩話として出色とされる※)
(※日本古典文学大辞典・岩波)
・その他『梅園叢書』『梅園拾葉』『梅園詩集』『歸山録』など多い
◆伝 記・梅園の長男、黄鶴の著した『先府君攣山先生行状』(寛政2年)が、
最高の梅園の伝記として、なにより貴重なものとされる。
◆人となり・いわゆる神童で、20歳過ぎてもやはり神童・天才を突き抜けた人。
幼時より驚異的な向学心と懐疑精神の持主で、15〜16歳で学問の手ほどきを
中津藩の儒者に受ける。天文学が大好き。もちろん自然観察も。
★23歳で長崎、太宰府、熊本方面に旅する。28歳で伊勢神宮に参拝。
★56歳(1778)で再び長崎に遊んだ以外、徹底、故郷を離れない生涯を送った。
再三、殿様方から招きを受けていたのだが!
◆素 顔・『先府君攣山先生行状』によると、聖人君子を絵に書いたような人で、
孔子の弟子を地で生きた方だが、決して堅物ではなく温厚篤実。
また知的で優しい。ボランテアの様子など、この辺もいずれ話題にしたい。
★余話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
安藤昌益(あんどう しょうえき)(1703〜1762)
医者・社会思想家・(出羽の人) ↓
◇2月幕府・大石良雄らを切腹させる
●三浦梅園 (1723〜1789)→5月クナシリ島のアイヌ反乱
↓
◇情死に関する上演、出版を禁止
頼 山陽(らい さんよう) (1780〜1832)
儒学者・史家
漢詩人(大阪生れ) ◇江戸、大阪に鉄座・真鍮座を設置(1780)
◇8月=鼠小僧次郎吉・死刑(1832)
★蘭学者だけでなく、儒・国学者など当代の知識人・文化人はた野蛮人など、相前後して西洋の文化の香りを発散する「長崎・出島」をめざし西遊した、ほんの一例。