1)好奇心こそ美徳という教育環境
・1776年2月17日、ドイツ、ヴュルツブルクに生れる。3歳で父と死別
・祖父カルル・カスバー・フォン・シーボルト(1736〜1807)は解剖学、産科学の開祖。ヴュルツブルク大学医学部の伝統を作った一家
・シーボルトは母の伯父ロツ神父のもとで育ちヴュルツブルク大学医学部へ
・医師国家試験合格、医学博士学位取得、勤務医師となるが飽き足りず
・外国雄飛を夢見、オランダの自然科学アカデミーから東インド軍医で赴任
・1822年9月23日、ロッテルダム出発、1823年2月13日、バタヴィア着
・総督カベレンの高い評価を得て日本勤務決定。自然研究家として赴任
2)鳴滝塾の英才たち
・1823年8月11日、長崎到着。商館長ブロンホフの紹介で医師として活動
・江戸の湊長安、阿波の美馬順三、三河の平井海蔵、周防の岡研介らが集う
・出島でブロンホフの植物標本収集を見て驚嘆、絵師川原慶賀を知る
・鳴滝塾は諏訪神社宮司青木永章の別荘だった。母屋2棟、別棟3棟
・弟子入りした門弟は医師、通辞、植物学(本草学)などの若者全国から集まる
・課題を設け論文を提出させ、ドクトル免状を与えた。後の「日本」の素材
・主な弟子リスト/伊東玄朴(後に将軍、幕府の医官)、石井宗謙(岡山で開業、後徳川家侍医)、伊藤圭介(尾張出身の植物学者、後に東京大学教授)、高良斎(鳴滝塾塾頭、蘭語論文多数提出)、高野長英(水沢出身、蘭学の天才、日本研究の論文多数提出、蛮社の獄で捕らわれ脱獄後自殺)、湊長安(江戸で開業)、美馬順三(塾頭、コレラで死亡)
3)江戸参府紀行の成果
・江戸参府はオランダ商館長が将軍に謁見、献上品を献上する行事(1609年参府開始、1636年から1789年まで毎年、1790年から4年に1回に。商館長、秘書、医師に限られ、大名行列に準じた幕府警護が付いた)
・1825年2月15日、長崎出発、4月10日江戸到着。5月18日江戸発、7月7日長崎着
・シーボルトは日本調査の機会と考え、異例の事前計画書を蘭印政庁に提出
・一行は商館長、秘書、シーボルト、助手の4人と日本人随員57人。ほかに別働隊として鳴滝塾から高良斎、二宮敬作、湊長安、高野長英ら、画家川原慶賀を同行させ、随所で情報交換。研究課題らを与え報告書を提出させた
・江戸は本石町「長崎屋」に37日間逗留。最上徳内、間宮林蔵、高橋作左衛門景保、葛飾北斎らと会う。北斎には画用紙を渡し、執筆を依頼している
・5月1日、11代将軍家斉に拝謁
・京都、大阪でも皇居、城などを見て、多数の訪問者に会っている。