浦上四番崩れについて(2)

レポーター:岩波智代子


(1)事件当時の長崎浦上村に公領浦上村、山里
本原郷辻の聖ヨゼフ堂/平の聖マリア堂
中野郷聖フランシスコザベリオ堂
家野郷馬場のサンタ・クララ堂
里郷
馬込郷(キリシタンの村ではない)

(2)四番崩れ年表
1865年3月17日 慶応元年 プチジャン神父による信徒発見
(浜口町のエリザベトが大浦天主堂に出頭)
1867年4月5日慶応3年 信徒の自葬事件
4月15日 700戸のキリシタン聖徳寺と断絶したいと申し出る。
4月20日 信者総代七名が長崎代官所に呼ばれて取り調べを受ける。
(ブラックリストの作成)
7月15日 午前3時大雨の中捕縛が始まる。68人の信徒の逮捕
10月6日 仙右衛門を除くほとんどが棄教して釈放される。
11月9日 大政奉還
1868年3月7日 慶応4年 維新政府の弾圧始まる。澤宣嘉着任
4月7日 五箇条のご誓文と五ぼうの掲示
5月17日 大阪の御前会議で一村総流配の決定
7月11日 第一次浦上キリシタンの流配。
9月8日 明治元年 明治と改元
1870年1月1日 明治2年 戸主700人の呼び出し。第二次浦上キリシンタンの流配
1月19日 高輪会談
1871年4月11日 明治3年 新潟駐在英国領事ジェームス・ツループと外務少丞水野良之の合同調査
5月22日 外務大丞楠本正隆、中野健明の巡見命令
12月17日 伊万里県事件
1872年3月14日 明治4年 1022名の改心者帰村
1873年2月21日 明治5年 キリシタン禁制の高札の撤去(259年振り)
3月14日 浦上異宗徒帰籍の達。1930名帰村
1889年 明治22年 日本国憲法発布。信教の自由が規定される。

(3)なぜ新政府はキリシタンを迫害したか?
1)徳川幕府時代につくられたキリシタンの恐ろしいイメージがあった。
2)フランス人宣教師と親幕派であったフランスに対する不信感
3)攘夷論者に対して、新政府も外国には旧幕府同様、弱腰外交であるととられる事への配慮。
4)キリスト教問題がきっかけとなって反政府運動が盛り上がるのを恐れた。

(4)キリシタン禁令廃止への動き
1)外国からの抗議
2)妖術を使うとか思われていたキリシタンが普通のまじめな人々であると判った。
従って、信徒を解放してもそれほどの弊害はないとの確信。
3)信者の説得に疲れ、改心工作に熱を失う県が出現する。
4)信徒を隔離して衣食住の面倒を見ることに莫大な経費がかかった。

 

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