「戦略爆撃(原子爆弾)報告書」を訳して

レポーター:郷農 彬子


・長崎市役所の依頼により2000ページに及ぶ「米国戦略爆撃報告書」を6名で半年かかり翻訳した。

・1996年(平成8年)3月25日に翻訳書を発行(非売品)

・被爆時(1945年8月9日)の長崎市の人口 :21万名

・連合国による爆撃状況(戦果)の調査は、1000名以上の調査員により1945年11月15日から12月1日まで行われた。

・長崎市の人口は1943年(昭和18年)は23万名であったが、1945年(昭和20年)10月は14万名であった。

・長崎は原爆以前に5回の空襲を受けていた。

・1945年8月9日の朝に偵察機到来し、午前10時53分にB29が2機飛来した。

・爆心地はテニスコート

・1945年11月23日に路面電車は運転を再開した。

・長崎医科大学の学生は800名いたが、原爆で650名死亡した。

・1945年8月10日付の長崎新聞は、政府の圧力で「被害はたいしたことない」旨の記事を載せた。

・1945年12月17日付のWASHINGTON POSTは、広島の状況「草が生え始めた〜」を載せた。

 

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