原爆体験記「よくぞありき」

レポーター:鐘ヶ江 敏


1.身元(被爆当時)
・本籍=長崎県西彼杵郡高浜村端島
・住所=長崎市榎津町 下宿
・身分=長崎工業経営専門学校(現長崎大学経済学部)生徒
学徒報告隊 年齢=17歳11ヶ月
・勤務先=三菱重工業株式会社長崎兵器製作所茂里町工場(魚雷製造)
長崎市茂里町

2.負傷
爆風、鉄片による左肩、左頬、挫滅傷 全治2ヶ月間
爆心地からの距離約1.5km
後遺症;脱毛、倦怠感、微熱 被爆後2ヶ月後復学

3.被爆時の模様 <よくぞ命ありき>
8/9 7:48AM 警戒警報
7:50AM 空襲警報
8:30AM 空襲警報解除
(1)工場内 建物は倒壊、壊滅
(2)避難経路 工場→目覚町→山王神社→金毘羅山→片淵町→母校→
榎津町の下宿→上小島町
(3)周辺の状況 中心街の状況、浦上方面の状況、
落下後20分〜30分で各地で出火
避難者→茂木方面へ

4.翌8月10日 地獄の街を行く
城山町→城山小学校→山里町→浦上教会→山里小学校→松山町→岩川町→
幸町→八千代町→長崎駅→大波止→下宿
地獄絵図、惨状目を覆うばかり。
8月11日も同じ地域を中心に終日人探し。

5.悪魔の使者「ファット・マン」
(1)性能 TNTに換算して約22,000t
(2)威力
(3)被災状況 (被災直後)
死者 73,884人 重軽傷者 74,909人 被災人員 120,820人
当時の長崎市の人口 約210,000人

(4)惨禍は今も
原子病(白血病、甲状腺障害など)による死者 108,039人
(平成8年度までの累計)

6.なぜ米国は原爆を投下したのか
(1)アメリカの大義名分
「戦争を即座に終らせるため、また、日本本土上陸作戦が始まれば、
100万人あるいは200万人にも及ぶかもしれない、といわれるアメリカ
兵の犠牲を避けるためだった。」(トルーマン大統領)
(2)ソ連への誇示
「ソ連に原爆の驚異的な破壊力を見せつけ、衝撃を与える必要があった
ため」(ロナルド・タカキ)

7.国際裁判
1995年 オランダのハーグ国際司法裁判所(ICJ)
口頭陳述法廷における証言
「禁止を明文化されていない兵器でも@文民を攻撃すること、A不必要な
苦痛を与えること、B環境を破壊すること、は禁止されていると聞いている。
核兵器の使用は、まさしくこれらの禁止事項に該当し、国際法に違反している。」
(伊藤一長 長崎市長)

8.祈り 過ちは二度と繰り返しません。

 

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