幕末秘話:長崎西奉行所明け渡し

レポーター:真野真行


(1)長崎と各県との違い
1) 長崎には城がなく武士がいなかった
2)長崎は天領であり、周囲は各小藩(大村、諫早、平戸、五島、島原、対馬等)の寄せ集め。

(2)長崎地役人
他の大名領では武士が重要な役職について取り仕切るところが、長崎では町役人が主要な
役職に就いて実務にあたった。町人が重んじられ幅を利かせた。

(3)長崎地役人筆頭の薬師寺久左衛門自暁と125代長崎奉行の河津伊豆守祐邦
<薬師寺久左衛門>
嘉永4年12月 町年寄に任ず
慶応2年4月 長崎会所頭取に任ず
慶応3年7月 長崎奉行支配調役に任し、高100俵となる
明治元年2月 長崎府取締役に任ず
明治2年9月 解職
明治7年2月 権大講義に補す
3月 長崎県内神道教導取締となる
4月 更に中教院事務監掌に補す
8月 更大講義に補す
明治9年2月 長崎県下神道事務分局長に補す
明治14年10月 副長に進む
明治17年10月22日 没す
<河津伊豆守>
曽我兄弟仇討ちで有名な工藤祐経の子孫
函館奉行支配調役として函館奉行を助け、北蝦夷の開拓につとめ、五稜郭の築造に
功があった。
文久3年9月 外国奉行となる
11月 欧米差遣副使 (スフィンクスと34名の侍)
慶応2年8月 関東郡代
慶応3年正月 勘定奉行並
8月 長崎奉行
後に 外国軍務副総裁、外国事務総裁・若年寄となる。53歳没す

(4)長崎の大リストラ
1)長崎会所の人員削減
慶応3年(1867年) かって2069人いた長崎会所の地役人をのを824人とした。
職務のない者は 遊撃隊に配属
元治元年1月 戸町、西泊の両番所の警備を遊撃隊に替えた
2)地役人の大改革
町年寄 → 調役
会所吟味役、請払役等 → 勘定役
遠見番、唐人番、船番、町司、総町乙名等 → 上番
番人、小使等(最下級地役人200名) → 下番
*幕府は長崎会所を仮御金蔵と改称

(5)大政奉還と幕府政治の終焉
慶応3年10月14日 15代将軍徳川慶喜 大政奉還
(→長崎は天領でも幕府治下でもなくなった)
10月16日 河津伊豆守着任 前任奉行との引継ぎが東役所(立山)で行われた。
12月9日 王政復古の大号令 幕府政治の終焉
12月26日 目付新見相模守が正式に大政奉還を長崎奉行に伝達
このとき主席地役人調役の薬師寺久左衛門が目付に密かに呼ばれ、
二人だけで話し合いが行われた。
このときの長崎での対立する3勢力
幕府側;長崎奉行河津伊豆守の戦力→約300〜1000名(+300名)
海援隊、佐々木三四郎(土佐藩)、松方助左衛門(薩摩藩)の戦力→200〜300名
英、仏、露の外国軍隊の戦力 →約200名

(6)鳥羽伏見の戦い急報
慶応4年(1868年)
1月3日 鳥羽伏見の戦い(幕府軍と会津・桑名の藩兵連合軍が薩長及び反幕藩兵と
戦い幕軍が大敗した)
1月9日 鳥羽伏見の戦いの大敗の知らせが長崎に届く
(→長崎奉行河津伊豆守、地役人筆頭地役人薬師寺久左衛門と相談)
1月10日 市内西古川町より出火。付近の榎津町、万屋町、西浜町、東浜町一円被災。
土佐商会(佐々木三四郎らの屯所)も全焼した。
1月11日 土佐、薩摩、大村は連絡しあって今後の方針を画策した。
「京阪不容易(危険)の形成に付、急場の儀も有之(いざということもあるので)、
組頭、調役定番は奉行所に当番して夜勤をする事にした」(薬師寺久左衛門日記)
1月12日 市中避難騒動あり。市中戦場の如し。(市民の日記)

(7)奉行所西役所の移転
1月13日 河津伊豆守は、長崎港の警備当番筑前黒田藩長崎聞役、栗田 貢を呼び次のことを述べた。
1)奉行は中央情勢によりひとまず東上する。
2)長崎表の政治外交貿易などを佐賀藩聞役及び地役人が協議のうえ執行すること。
これに対し、栗田 貢は 佐々木三四郎、松方助左衛門(薩摩藩)に内報して浪士などが
騒ぎを起こさぬようにすべきと助言した。(薬師寺と打ち合せとおり)
奉行や江戸役人が長崎引払いのときは、人心動揺の恐れがあるから、下記の陽動作戦を採った。
1)西役所は余りに海岸に近い
2)対外関係が緊迫しているので、防衛のため
以上の理由で西役所を立山役所へ移転する。
(市民のことはすべて薬師寺以下の地役人が手当した。)
1月14日 早朝より西役所備付け武器、書類はもちろん家具漆器に至るまで、車や人夫により立山屋敷に搬入。
この後、河津伊豆守は、江戸役人を大波止より夜陰を利用して英船へ家族と必要器具書類を同時に送り込ませた。長崎仮御金蔵も持ち込んだ。

(8)奉行脱出
1月14日夜(午後11時)奉行は 護衛役の村尾(地役人・腕利きの剣士)を連れ大波止へ。夜深更 土佐藩にて「奉行脱出の準備中」「船は外国船借入」という急報あり。
佐々木・松方は地役人に朝廷方へ帰順するよう説得を行い、地役人は説得に応じ帰順。奉行所の遊撃隊も帰順した。
1月15日 奉行所から地役人の主だった者に布告がもたらされた。
1)金5000両と米5000石は支配調役へ地役人への当面の手当とする。
2)町方掛へ 年寄役市中一同へ米5000石。
3)代官へ米200石、寺社方へ米500石。

(9)長崎現銀の行方と奉行所(西役所)の出来事
1月15日 河津伊豆守出港の直前に、海援隊菅野覚兵衛乗り込みの土佐藩夕顔丸が長崎を出港したのは、奉行が持ち逃げ(とはいうが、もともと幕府公金)を途中の海上で待ち受けて奪い返すための脅迫に行った。(これは実際に奪い返された。)
佐々木が西役所に来て、在崎各藩士を招集、前後策を講じた。松方も出席。

(10)まとめ
長崎維新の全景の幕引きは、長崎奉行河津伊豆守、反幕佐々木・松方の両藩士、最終幕の拍子木を叩いたのは、町役人の薬師寺久左衛門であった。
(この騒乱寸前において彼に分かったことは、奉行も志士も異人も本当は争いを好んでいないということであった。争わんとするには勝ち目がなければならなかったが、そのとき
彼らには、三方三様に、そんな自信は先ずなかったと判断していた。

 

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