最後の長崎通辞:福地源一郎

レポーター:平田桂子


福地源一郎 (桜痴);1841年(天保12年)〜1906年(明治39年)

日本十傑 明治18年(1885年) 今日新聞(現東京新聞)より 

分 野

人 物

応募数

政治家 伊藤 博文 927
軍師 榎本 武揚 425
学術家 中村 正道 592
法律家 鳩山 和夫 618
著述家 福沢 諭吉 1124
新聞記者 福地 源一郎 1089
教法家 北畠 道竜 486
商法家 渋沢 栄一 596
医師 佐藤 進 565
画家 守住 貫魚 459

応募総数 1406通

<福地 桜痴の履歴>
・天保12年 父福地苟庵(こうあん)、母松子の長男として長崎新石灰町に誕生。既に姉6人がいた。幼名八十吉、元服後源一郎。
・14、5歳で蘭学を始めた。安政5年(1858年)御軍艦奉行矢田堀(谷田堀)景蔵に従い咸臨丸で江戸出府。
・矢田堀(谷田堀)→幕臣水野筑後守忠徳→英文学者森山多吉郎宅へ。
桜痴のの志は有用の人として幕府に仕官することだった。他方、吉原の魅力に終生取りつかれた。「江左第一風流才子」を自称。
・安政6年(1859年)6月 外国奉行支配通弁御用御雇になった。
万延元年 御家人となる。
・開港延期と使節派遣 .....初めての洋行 文久元年12月〜文久2年12月
正使 竹内下野守安徳、副使 松平石見守、他総勢35名
ルート:品川出航(イギリス軍艦オーディン号)→長崎→スエズ(一旦上陸)→カイロ→アレクサンドリア→マルセイユ→パリ→ロンドン→オランダ→ベルリン→ペテルスブルク→ベルリン→ポルトガル→フランス船で帰国。諭吉もいっしょに渡航したが、福翁自伝には桜痴の名はない。パリ、ロンドンで新聞に感動、時期を得て新聞記者となり、時事を痛快に論ぜんと思った。
・文久3年、水野忠徳のクーデター失敗。連座しかけるが水野の温情で大阪出張ということに。慶応元年(1865年)フランス、イギリスへ出張。フランスで万国公法国際法を学ぶべしの内命を受けた。

< 新聞人・福地桜痴(吾曹子) >
・新聞発刊禁止第1号、江湖新聞。彰義隊の騒ぎの後、新政府の糾問所に連行された。
尋問数回で無事無罪放免された。新聞は佐幕主義で、旧徳川有利の記事が多かった。
・明治3年(1870年),伊藤博文の引きで大蔵省出仕。11月貨幣制度調査のため渡米する伊藤に随行。明治4年、岩倉一行欧米派遣に随行。岩倉、大久保、木戸といった新日本の第一人者に近づくことができたのが最大の収穫だった。
・明治6年6月(1873年)帰国。
・東京日日新聞への転身←江湖新聞の仲間が明治5年に創刊。
太政官御用新聞=読者層に官吏=新聞の権威付=新聞近代化第一歩の社説の創設。
・西南戦争と現地報道 明治10年(1877年)
伊藤博文の許可をもらい熊本へ赴く。山形有朋から「従軍記者として従軍させることはできないが、軍には報告や諸文案起草の記録掛がいない。その任につくならば便宜をはかる。」といわれた。「東京日日」にも通信することの黙許を得て、軍用御用掛となった。

 

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