シーボルトの好奇心(5)

「シーボルト事件とは」

レポーター:堀 憲昭


1)事件の発端
・間宮林蔵密告/1828年(文政11年)3月28日、シーボルトから包みと手紙が林蔵に届く。
 →勘定奉行村垣淡路守定行に届ける
・高橋作左衛門景保への疑い/林蔵への包みは大通詞吉雄権之助経由できた景保宛への私信だったことから疑惑を招く→内偵
・シーボルト帰国予定の船が台風で座礁/1828年9月17日、コネリアス・ハウトマン号暴風で稲佐海岸に乗り上げる
・入り船扱いで臨検で禁制品続々押収/日本地図、樺太地図、葵紋の羽織、武具など多数押収→早馬でリストは江戸へ

2)高橋作左衛門景保逮捕
・天文方兼書物奉行高橋作左衛門捕り物劇/11月17日〜18日、御用提灯屋敷包囲→逮捕、家宅捜索
・自白で弟子いもずる逮捕/下河辺右衛門ほか9人逮捕、うち岡田東輔は自宅に帰されて自決→江戸城内住居図を提供
・高橋とシーボルトの密約/クルーゼンシュテルン『世界周航記』と日本地図(伊能忠敬図)など最新地図交換の密約→吉雄忠次郎
・最上徳内、間宮林蔵に嫌われるエリート/両者がたたきあげ普請役(勘定奉行配下)に対し、名門の坊ちゃん
・獄死塩漬け保存のあと刑確定時に斬首/1829年3月20日急死、死刑確定時に執行

3)シーボルト追及/「日本御構」
・江戸参府時に疑惑の交際/景保、最上徳内、土生玄碩、間宮林蔵、島津重豪などスパイ疑惑に結び付く人脈との交際
・通詞目付吉雄忠次郎のジレンマ/景保とシーボルトの通訳で情報筒抜け、両方のスパイとしてのジレンマ→密告
・商館長ステュルレルの嫉妬/密告文32通存在、派手なシーボルトの奔放な振る舞いに嫉妬←ナポレオン戦争参戦の誇り
・通詞10人、鳴滝塾弟子ら23人、絵師慶賀、妻其扇ら連座/奉行がシーボルト追及の包囲網に
・出島軟禁処分で長期尋問/23か条の尋問(書面準備)、徹底した家宅捜索、周囲から包囲→個人名を伏せかばう答弁
・上申書、帰化申請書提出で日本への忠誠表明/一部地図返却で奉行軟化
・国外追放判決「日本御構」/1829年10月22日、立山奉行所で国外追放判決。同12月30日長崎出港

4)事件はなぜ起きたか
・ロシアスパイ説まで出る北方情勢の緊迫/樺太、国後、択捉と北海道を巡るロシアの南下と探検
・オランダ政府の情報収集政策と実証アカデミズム精神/シーボルトの探求心、好奇心が災い
・幕府御用学者漢学派が「蘭癖(らんぺき)」非難ムード
・御庭番による遠国奉行兼任告発/間宮林蔵の上司村垣淡路守定行、島津重豪の隠密調査からスパイ作戦展開


<参考文献>
『シーボルト先生』(呉 秀三、東洋文庫)『シーボルト』(板沢武雄、吉川弘文館)
『文政11年のスパイ戦争』(秦 新二、文芸春秋)『シーボルトと鎖国・開国』(宮崎通生、思文館出版)
『間宮林蔵<隠密説>の虚実』(小谷野敦、教育出版)ほか

 

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