私の先祖探し

レポーター 真野真行


(1) 真野家(長崎における350年)

(2) 親戚である森家

(3) 親戚とは何か?家族とは何か?


(1) 真野家(長崎における350年)


今年の「精霊流し」は県内3133隻(-140隻)、長崎市内1353隻(-70隻)

1) どうしても、わからないかった刀のこと

この大刀と小刀×2=4本の刀はどうしてあるのだろう?=身分は町人なのに何故なのか?
長崎という土地は全国でも珍しい所で、地役人という特殊な (武士ではなく町役人)
人達がいた。
その中では「町方」と「番方」に別れ、天和3年の「地役人帯刀禁止令」以降は 「町方」は刀を
取り上げられたが「番方」は治安維持を目的として、幕末まで、帯刀していた。
(長崎海軍伝習所「中央公論社 刊」より)

2)漢文について、その読解力のなさを痛感

まずお墓に書いてある碑文の「拓本どり」をした。
「拓本どり」は、大きな和紙を、字の入った石の上に載せて拓本を取る。
九大の中国文学研究室を訪ねた所、たまたまそこにいた当時講師をされていた竹村先生とお会いした。
名刺を出して訳を話すと、傍にいた3人の学生と 一緒に、わからない箇所を含め、
全文の解読をやってもらった。

3)代官手代と町年寄手代のこと

代官は幕府直轄領、いわゆる天領の徴税を担当する役人。
代官事務所が雇った部下は20人〜30人
同じ5万石の大名だと約三百人の家臣がいたというからざっと十分の一以下である。
にもかかわらず、同じだけの成果が求められた。このため、部下には優秀な人材が欠かせなかったという。
一般には代官は役高が150俵であり、町年寄は100俵(幕末に薬師寺家)である。
手代(てかわり)は並みで20両5人扶持である。
幕臣は35俵3人扶持(年収約2百10万円)である。
これに出島番の役が、加わった時は、その分給金が高かったといえる。

4)長崎における350年間の歩み

イ)真野の元祖真野善兵衛清親は大坂城の落城する前は、どうだったのだろう?
「戦国人名辞典」によると「尾張の国津島七苗字の真野氏の出」 
 大坂城落城時に自斥したり、脱走したりしている。おそらくこの一族であろう。

氏 名

役 職

歿年月日

1) 元祖→真野善兵衛清親 大坂城落城の後、堺に浪人す。 寛文5年2月14日没
2) 初代→ 真野甚輔清光 父と共に長崎に来住し薬師寺家に家老職として仕える。 享保15年12月14日没
3) 2代→真野甚左衛門清行 薬師寺家家老職 明和8年1月24日没
4) 3代→真野甚助清房 長崎地役人出島番。
石火矢鉄砲免許皆伝。(薬師寺家来)
文化8年2月8日没(78歳)
5) 4代→真野甚左衛門清智 長崎地役人出島番(薬師寺家来) 天保10年3月12日没(51歳)
6) 5代→真野甚左衛門清高 長崎地役人出島番(薬師寺家来) 文久 3年5月6日没(49歳)
7) 6代→真野浩四郎 長崎浜町郵便局長(初代) 昭和23年1月16日没(73歳)
8) 7代→ 真野武男 長崎浜町郵便局長 (二代) 昭和55年11月24日没(79歳)
9) 8代→真野真行(正行) プリマハム食肉需給調査研究所  

考えてみると、出島の復原と同じように火事があったりして、
建物に変遷があるのと同じく、「出島番}にも変化があった。
最初は石火矢鉄砲の技術があったものが、石火矢鉄砲自身が時代遅れとなり、
その管理を中心としたものに移行していった。

昨平成10年、東京の公文書館で見つけた「長崎地役人分限帳」から、
長崎図書館での「萬記帳」まで辿り着いたといえる。
この「萬記帳」は2〜3年後、この翻訳が出来る。

(2) 親戚である森家


「真野家・森家一族系譜」を20年近く前に発行した。
まず真野浩四郎は森家の出身であるため、その出身である森家と真野家の関係を知ることが必要である。

この事情をよく知っていた、祖父浩四郎の実父、森栄之直教(石碑を書いた人)
という人物である。

1) 小曽根家

1)一年前に「長崎西役所明け渡し」の時に、お話したが、長崎奉行西役所において銃声一発が起った。
 
土佐藩士、関雄之助(英語が出来る)が薩摩藩士川畑半助を撃った一発は、
関雄之助を切腹させることになる。(慶応4年1月15日)
しかし、その日は2年前の慶応2年1月15日小曽根家の離れ「梅花書屋」で
関雄之助(英語が出来る)は、 近藤長次郎を切腹させた。
まさにその日に切腹したのである。偶然とは不思議なものである。

2)小曽根家は土佐藩の坂本龍馬、近藤長次郎ら同士20数名(亀山社中、
 のち海援隊)を物心両面でバックアップしていた。
近藤長次郎は龍馬が長崎不在中、同士、中でも関雄之助によって
切腹させられた。事の起こりはこうである。
英国人貿易商トーマス・グラバーに頼み、単身密かに英国留学を企てたことが
わかり「日本を逃げ出すとは裏切り行為」と受け取られたためだったと言う。
その墓は小曽根家の一角にある。
「梅花書屋氏墓」は龍馬の直筆といわれるが此れも諸説あり。

2)高石家

京都に移った高石家 (長崎で一番古い 乙名の家)
お墓は長崎の本連寺に大きなお墓に何十本という石塔があった。
それをそのままにしていると、ある日、お寺の住職が長崎から京都まで、
尋ねて来て、お墓を売ってほしいという。「これから先長崎に帰ること
もない」と考えてお墓は何軒かにわけて売り、その石塔は、その一角に
何十本と積み重ねて、一部を残したという。

3) 高石家から入った森喜智郎、妻由喜の経歴 (長崎娠遠隊、司令官土屋氏の娘)

幕末〜明治維新、土屋金六は慶応四年娠遠隊(地役人の師弟が入った)の
中隊長として東北を転戦し、幕府軍との戦いで負傷して帰っている。
(総員363名、戦死13名、戦病死4名、負傷19名を出している。)
土屋金六は唐人番土屋氏の一族であり、真野家4代妻の実家である。

4) 森家のルーツ

森家のルーツは浜の町では古い家で、この家は元禄時代から続いている。
森家の元祖は「豊前小倉城主、森 右近太夫忠正 (足利時代) だ」という
明治初期、長崎区会(県)会議員に当選した人は、当局へ系図を出すように
なっていた。それがまだあれば見てみたいと思っているが、
県庁が火事とか台風倒壊しているので、もうそこにはないかもしれない。
それは森(本)家で見せてもらったが、森家の先祖の名前だった。
室町時代に豊前小倉城主森 右近太夫忠正で、源氏の流れという。
森 右近太夫忠正とは、岡山の美作津山藩の城主(1571〜1634年で寛永11年
65才没)だったそうである。
森 右近太夫忠正をべつに考えると、また豊後大分の大名大友氏のころは、
戦国時代は小倉城は小さな山城でその山城もどこなのか、はっきりせず、
城主が何人も入れ代わったという。
そこで「戦国時代小倉城主という」としか、書けなかった。

(3)親戚とは何か?家族とは何か?
1)感謝の手紙

今度の「真野家、森家の一族系譜」をだした所、おおぜいの方々より、
驚きと感謝の手紙や葉書を頂いた。
「森の先祖の墓碑の碑文は、どんなにか読んでみようとしたが、どうしても読めなかった。」
「今までは森家という古い家だったとしてしかいえなかったのが、
これから子孫代々語り続けます」といった事までいろいろあった。
この系譜は長崎にいてはとても、出来なかったろう。
長崎を離れてたからこそ、出来たと思う。

2)長崎は、江戸時代には、全く清潔な町だった。

江戸時代には、全く清潔な町だった。」という事を長崎に来た外国人は述べている。
文久元年プロシアの使節オイレンブルグが、長崎の町の印象を
「町はよく整備され、道はお雨が降ってもすぐ乾く(石畳のせい)、
町は二階建ての町家がならんでいる。よく掃き清められている。」と述べている。
「おもしろ江戸ばなし」に登場する江戸風俗研究家の 「杉浦日向子」は
「江戸は再生の町〜無駄がない」という。 
現在この世は、目の前のきれいな事のみ追求して、世の中の目に見えない
物を汚してしまっているのではないか?
もっと環境問題、温暖化問題、ゴミ問題、ダイオキシン問題等々を
解決すべきでないか?と思うのである。

今私達が生きる期間を仮に80年とすれば、この期間をどこにあてはめたら、
一番良いのだろう?と思う。
太古以来、人間が生まれてから、今私達が生きているこの期間は一番幸せな
時ではないだろうか?
長い窒息しそうな封建社会 と軍国社会のあと、民主主義のこの時代この50年が
一番幸せであると思う。

3) 「一期一会」という言葉がある。

「一期一会」という言葉がある。その意味は…「一生に一度まみえる事」
「この一度会った人を大切に・・」
今ここに集まった人達は本当に幸福で、幸せな人であると思う。
また長崎楽会に集まった人々も幸せな人々である。
この長崎楽会は長崎同窓会の様なものである。
この誘いに乗ってここに出席できたのは、何かの縁であろうかと思われる。
出身者の何百万分の一の確率であろうと思う。
人の人生と言うものは、この家系図をつくってみて初めてわかった。
いいことも悪いことも、全部書いた。
この一つ一つの家庭(一家族)が、人それぞれの生きざまが歴史をつくる、
人生の縮図であるといえる。

 

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