「長崎ぶらぶら節」を聴こう会

レポーター:山口光太郎


愛八の生涯(小説と史実)

明治7年10月23日

<小説>

網場にて父 松尾甚三郎 母 ナカの次女として生まれる

<史実>

網場にて父 松尾甚三郎 母 ナカの次女として生まれる

明治16年7月17日 10歳 丸山の島田屋(置屋)へ行儀見習い  
明治18年 12歳 見習い期間を終え舞子となる 名前は愛八(あげはち)  
明治23年秋 17歳 芸者お披露目 17歳 丸山の置屋末吉から愛次の妹としてお披露目
明治24年 18歳 旦那持ち 旦那は関根重蔵(食品貿 易商) 20歳を過ぎた頃にはめきめき売り出して丸山五人組としてもてはやされる。以後、五 人組から欠けたことはない 18歳 かねつき祝いをして旦那もちに 派手な顔だちと芸熱心で売れっ子になる。小高、桃代、園吉らとともに丸山五人組と して有名な存在に。
明治45年 東京大角力協会より木戸御免のバッジをもらう  
大正2年 大阪大角力協会より木戸御免の免状もらう  
大正10年 ワシントン軍縮会議  
大正11年 東京大相撲の長崎巡業で古賀十二郎に出会う  
大正11年11月 長崎の歌探しの手助けを求められる
本格的に歌探し始める
 
大正14年11月頃 小浜の老芸者にぶらぶら節を教わる 古賀十二郎との付き合いは昭和の初め頃
昭和3年 浜節を作曲 古賀十二郎が詩をつける 町検の凸助がニッポノホン(現・日本コロンビア)で長崎ぶらぶら節吹き込み
昭和5年 宴席で西倏八十に出会う レコード化の話 ビクターでレコーディング (A面ぶらぶら節 B面浜節) 富貴楼の客、声楽家の佐藤美子と出会う。佐藤の紹介でビクターで長崎ぶらぶら節吹 き込み
昭和6年2月   レコード発売
昭和6年6月15日   熊本放送開局3周年記念放送に出演 ぶらぶら節歌う
昭和8年12月25日 脳溢血で倒れる  
昭和8年12月30日 午後4時30分死去 享年60歳 死去 享年60歳
昭和9年1月8日 寺町浄安寺にて葬儀
戒名 愛誉八池貞水大姉
墓所 梅園天神の上 上小島の丘
寺町浄安寺にて葬儀
戒名 愛誉八池貞水大姉

小説と巷間伝わる史実とのいちばんの違いは、愛八の出生です。小説では愛八は捨て 子として描かれています。史実では、「そのような言い伝えもあるが、きちんとした 戸籍もあるので誤りであろう」としています。 さらに小説では、家督を相続した弟の裏切りにより愛八の悲劇性を際立たせています が、実際には兄弟の交流はあったようです。愛八の死後、その位牌を守ってきたのは 弟三代治の娘である長女・吉村治美さん(桜馬場在住・逝去)とその妹の松尾絹子さ んでした。 さらに、愛八の妹で三女のスエさんの娘・福富キミさんが愛八の養女となったとの記 述もあります。キミさんは長崎高女卒。神戸に住まわれていたとのことです。 しかし、史実の通りに小説で描かれていたら、随分と平板なストーリーになっていた と思います。弟の裏切りが愛八の孤独を浮き立たせてドラマティックな展開になって います。


<注>上記レポート『長崎ぶらぶら節』の参考資料は下記へアップロードされています。
  長崎東高在京同窓会ホームページの「長崎学」のページです。
   http://www19.big.or.jp/~higashi/nagasaki/burabura/index.html


山口光太郎氏は3月27日急逝されました。心より山口氏のご冥福をお祈り致します。

 

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