<吉雄耕牛の素描>
耕牛の高祖父は肝附伯左衛門で、オランダ人が平戸の商館を持っていた頃から、阿蘭陀通詞として働いていた。 | |
1640年 | 伯左衛門がオランダ人の出島引越しにつれて長崎にやってくる。 |
17・18世紀 | ポルトガル語が国際語であった。 |
ケンペルからオランダ語を仕込まれたのは今村源右衛門。その源右衛門に学んだのが耕牛の父、吉雄藤三郎。 | |
1714年 | 長崎奉行より阿蘭陀通詞にポルトガル語の学習は不要でオランダ語だけに励むように指示が出る。 |
1724年 | 西川如見が亡くなり、吉雄耕牛生まれる。 |
14歳で稽古通詞、19歳で小通詞そして25歳で大通詞に進む。(普通は4,50歳である) | |
1745年 | 長崎通詞西善三郎、吉雄耕牛、本木仁太夫の3人、オランダの書物の翻訳の特許を許される。→のち「蘭学事始」で長崎通詞は口舌のみと書かれたのは明らかに間違っている。 |
1770年 | 平賀源内が再遊。 |
1770年 | 前野良沢が長崎に来る。→「解体新書」(序文は吉雄耕牛) |
1775年 | ツンベリー来日→梅毒の水銀水治療法を伝授してもらう。→吉雄家の財力→吉雄の阿蘭陀座敷 |
1777年 | 林 子平が再遊。 |
1778年 | 三浦梅園が再遊。 |
1785年 | 大槻玄沢が長崎に来る。 |
1788年 | 司馬江漢が長崎に来る。肖像を描く。 |
1788年 | 本木良水とともに「阿蘭陀永続暦和解」を出す。 |
1795年 | 「魯使北京紀行」を翻訳。(これは医学書ではない) |
1800年 | 平戸町自宅にて病没。禅林寺に埋葬。 |
1800年 | オランダがチャーターした米船”マサチューセッツ”号が入港。 |