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1639年 |
布教・交易の始まり | 南蛮ブーム | 弾圧時代 |
恐るべき謎の武器種子島に上陸(1543) なんと鉄兜をも貫き通す鉛の玉が、何間も先まで飛んで行くという、恐るべき鉄の筒が南蛮人によってもたらされた。 宣教師ザビエル鹿児島に上陸(1549) イエズス会のせんきょうしフランシスコ・ザビエルと申す者薩摩の鹿児島に上陸、キリスト教なる教えを広め始めた。
*ヤジロウ(武士):マラッカでザビエルに会った。南蛮船平戸に入港(1550) 種々の珍品を満載した南蛮交易を求めて九州平戸に入港、藩主松浦隆信これをゆるした。 *南蛮船:ポルトガル船 ザビエル平戸で布教(1550) 昨年鹿児島で布教を始めたザビエル、こんどは平戸で説教、わずか一ヶ月で鹿児島における一年分の成果を挙げた。
*信者数;100名(一ヶ月),1558年1500名”宮の前事件”起る(1561) 平戸宮の前にて、交易のため渡来せつ南蛮人と、平戸町民との間で、生糸の取引をめぐって争いが起こり、双方に死傷者を出した。
この事件をきっかけに藩主松浦隆信は南蛮人に平戸から退去を求めた。大村藩主大村純忠南蛮船を横瀬浦に誘致(1562) さきに平戸から退去を求められた南蛮船に対し、大村藩主大村純忠は横瀬浦への寄港をよびかけた。
条件は横瀬浦を二つにし、半分を教会領とし、その地には教会の許可なく異教徒は住むことはできない、交易の南蛮人には
向こう10年間免税というもの。大村藩主キリスト教徒となる。(1563) 大村純忠洗礼を受けドン・バルトロメオの洗礼名となり、重臣25名も受洗。
だが他の家臣の中には、これに反対する者もあり、大村氏の家督継承者肥前武雄の藩主後藤貴明を擁して反乱を起こし、
横瀬浦の教会堂や民家は焼け落ちた。この為宣教師や南蛮船は再び根拠地を失った。深江の浦(長崎)を南蛮船の港とすることに決定(1570) 大村藩とイエズス会ではかねてより南蛮船が停泊できる良港をさがしていたが、深江の浦(長崎)が適当と判断、
ただちに港としての町建てを行うこととなった。長崎の町建て終わり、町名決まる。(1571) かねてより長崎で行われていた町建ては滞りなく終わり、町名は異化のように決定。
嶋原町、分知町、大村町、外浦町、平戸町、横瀬浦町の六ケ町。
*町造りを大村、平戸、有馬の三藩が分担。南蛮船次々入港、長崎の町賑わう(1571) 取引高の三分の一を手数料として取るという商習慣から、吾も吾もと商売に手を出す者が増え、取引上の紛争も
あちこちで起っている。南蛮人と日本女性との間に”私生児”多数生まれる(1572) 渡来せる南蛮人町内に自由に居住、14〜5歳を下限とする日本人女性と同棲生活を満喫「僅かな金で自分たちに可能な最上の愉悦」だとフィレンツェ出身の商人フランチェスコ・カルレッティはその著『世界周遊談』で証言している。 南蛮人による詐欺事件頻発(1573) 南蛮人の中には「仕入れ用の前渡金を費消して、やむを得ず、乙の委託金で甲の注文品を仕入れ、更に丙の委託金で乙に対する契約を果たす、というやりくりで、一時湖塗する者が出た。それが暴露して、わが商人らは前渡金の返還を要求した。この負債が一人で銀二千貫目ないし四千貫目に上った者もあった。」(重藤威夫著『長崎居留地』講談社現代新書より) 大村純忠長崎六町と隣接する茂木をイエズス会に寄進(1580) 寄進の条件 1.純忠は年々1000ドカードの船舶税を南蛮人から徴収する。2.日本人に対する裁判は大村藩の役人が行う、というもの。 キリシタン宗徒、玉園山の神宮寺を焼く(1581) 遣欧少年使節キリシタンの総本山ローマへ(1582) 大友・大村・有馬の三キリシタン大名は四人の少年使節を遠くローマに派遣、一行は東方巡察使ヴァリニアノに引率され、南蛮船で長崎より出港した。 キリスト教徒、ミゼルコルジア(慈悲)の組を創立(1583) 戦国末期の困窮にあえぐ民衆を救済するため、南蛮人宣教師をはじめ、長崎の信者たちは各種の慈悲救済の組織:ミゼルコルジアを作った。 バテレン追放令(1590) 秀吉突如としてバテレン追放令を出した。 遣欧少年使節帰国(1587) 八年前の天正10年(1582)三人のキリシタン大名が、ローマに派遣した遣欧少年使節の一行は6月20日、ヴァリニアノ神父と共に長崎へ帰った。 遣欧少年使節ヴァリニアノと共に秀吉に謁見(1591) さきに帰国した四人の遣欧少年使節は、引率者ヴァリニアノと共に聚楽第を訪れ、秀吉に謁見した。
秀吉は一行に西欧事情をきいたり、持ちかえった西洋楽器を演奏させた。
なお、この時の使節一行の華麗な行列は、たちまち町中の話題となり「南蛮ブーム」に火をつけた。秀吉、吉野の花見の仮装に南蛮服の着用を命じる(1594) 何事も南蛮風が流行る今日この頃、太閤秀吉は吉野の花見に参加する家来どもに、南蛮服の着用を命じ、洋服屋も急遽長崎から呼び寄せた。
なお、この頃の京の町の様子をフランシス・パシオなる宣教師は「キリスト教徒でもないのに数珠(ロザリオ)をつけ、十字架を身に帯び、手にハンケチをもったり、街を歩きながら『バーテル・ノステル(われらが父よ)』や『アヴェ・マリア』を暗誦したりすると報告している。
また京都の医者、向井元升はその著『知恥篇』の中で「その頃人々好んで南蛮名をつけ食事、衣服、人との交わりなどを南蛮風にした」と記している。長崎奉行寺沢志摩守受洗す(1594) 折からの「南蛮ブーム」に影響されたか長崎奉行寺沢志摩守も受洗したが、間もなく棄教。禁教に向う空気をいちはやく察したものと思われる。 イエズス会とフランシスコ会対立激化(1594) イエズス会の宣教師たちは、活躍著しいフランシスコ会を快く思わず、指導者ペデロ・バウチスタ神父の追放を奉行寺沢志摩守に働きかけ、退去命令を出させた。 イエズス会、在日フランシスコ会全員の追放を決議(1596) 長崎に本部を置くイエズス会はローマ教皇の勅書に基づき、在日フランシスコ会全員の日本追放を決議。 京都のフランシスコ会士ら逮捕さる(1596) 10月19日、京都のフランシスコ会修院(カーザ)が突如捕手に包囲され、バウチスタ神父をはじめ京阪の神父や修道士6人及び日本人信徒17人が逮捕され、長崎に送られた。 西坂に於いてバウチスタ神父ら26人処刑(1596) 12月19日、過日逮捕されていたフランシスコ会神父、修道士ら6人と、日本人清じゃ20人は長崎西坂において磔刑に処せられた。 ポルトガル商人の人身売買に警告(1596) 長崎の乙名、最近目に余るポルトガル商人の人身売買について媽港(マカオ)会議所および日本司教マルチンスに対し、文書で警告を発した。 イエズス会経営の画学舎移転(1600) 油彩画、銅版画、彫刻、楽器などを製作するイエズス会経営の画学舎(工芸学校)は有馬より長崎に移転、このところ急激に需要が増加しつつある”聖像””聖画”の製作のためと思われる。 後藤宗因、キリシタン書を刊行(1600) 長崎町民後藤宗因登明(洗礼名トメイ)は町内に印刷所を設けキリシタン書「どちりなきりしたん」「おらしょの翻訳」を国字で出版、刊行した。 イエズス会「和葡字書」刊行(1603) 長崎イエズス会はコレジョ版「和葡対訳字書」を刊行した。 幕府、糸割符法を制定(1604) 幕府は糸割符法を制定し、京都、堺、長崎の商人にポルトガル船が舶載する生糸の一括購入の特権を与えると発表した。 有馬晴信の御朱印船乗組員マカオでポルトガル人と衝突(1608) 家康の書簡と進物をのせて占城に渡航した御朱印船は、帰途マカオでポルトガル人と衝突し、数人を殺傷後民家に立てこもったが、アンドレ・ベッソーア率いる守備隊に射殺される。
この年ジョアン・ロドリゲス著「日本文典」刊行。ポルトガル船長崎港外で爆沈(1609) ポルトガル船マードレ・デ・デウス号(300人乗り組み)マカオから生糸を満載して来航。さきのマカオ事件で同船の討ち取り方を幕府に懇願していた有馬勢7000人は数百隻の小舟に分乗、殺気を感じて出港しようとするデウス号を追跡、港外神の島と伊王島間の海上で包囲攻撃、追い詰められたポルトガル船は弾薬庫に火をつけて爆沈した。 在日のバテレンらは幕府により追放の通達(1614) 各地ぼバテレンら、幕府より追放の通達をうけ、続々と長崎に集まる(1月) 4月2日、この日より20日間にわたり、キリシタンら行列をなして長崎の街を練り歩く。 長崎のすべての教会破壊さる(1614) ザビエル来日以来65年を経たこの年、日本のキリシタン教会は全滅的打撃を受けた。10月6日、在日宣教師の約三分のニと高山右近をはじめキリシタン百四十八人をマカオとマニラに追放。さらに10月下旬幕府は諸藩の兵1万人を率いて、島原半島のキリシタン弾圧に向かう(島原、有家、有馬、口の津、小浜の各地で殉教者が出る) 水野河内守、奉行就任と同時にキリシタン弾圧を強化(1626) 入牢中のバテレン数人を火刑に処し、次いで教徒の検挙に着手、過酷な体罰を科して転宗を迫った。 島原藩主松倉重政、パウロ内堀作右衛門ら16人を雲仙地獄に投げ込んで拷問、全員殉教す。(地獄責めの始まり) (1627) 潜入バテレン、穴吊りの刑を受ける者多し。(1633) イエズス会神父クリストヴァン・フェレイラ、遣欧使節の一人である中浦ジュリアン神父ら8人とともに西坂で穴吊りの刑を受ける。フェレイラは棄教。 幕府、ポルトガル人を収容するため、長崎町人のうち富裕な者25人に命じて出島を築かせる(1634) 長崎生まれのポルトガル人との混血男女287人、マカオに追放(1636) 同年、転びバテレン沢野忠庵(クリストヴァン・フェレイラ)「顕偽録」を著し、キリスト教に反論する。またポルトガル船4隻入港するも、全員出島に抑留。 島原・天草の乱起こる(1637) 幕府、ポルトガル船の日本渡航を禁止(1639)
【参考文献】 長崎市史 耶蘇会通信 フロイス日本史 開港史 長崎の殉教者 県史 南蛮のバテレン 印刷文化の発祥 日欧通交史 長崎の教会 大村藩年譜 吉利支丹宗門史
【参考文献】 日ポ交流と南蛮美術 坂本 満 国立歴史民俗博物館資料研究部長 河出書房新社 ヨーロッパ文化と日本文化 ルイス・フロイス 岡田章雄訳注 岩波文庫 ポルトガルいま・むかし 日埜博司 流通経済大学助教授 新潮社 日本キリスト教史 五野井隆史 吉川弘文館 長崎居留地 重藤威夫 講談社現代新書 日本の聖書 海老沢有道 講談社学術文庫
イエズス会が刊行した書籍 フロイス 日本史、日欧比較論 ロドリゲス 日本文典、日葡辞書、
日西辞書、平家物語、
和漢朗詠集、ヒデスの導師
コンテムスツ・ムンジ
どちりなきりしたん 等