長崎聞役

‐江戸時代の情報収集者‐

レポーター:山下博幸


<17世紀の鎖国前夜から鎖国体制へ>

西暦年

事             件

1608 有馬晴信の御朱印船乗組員マカオでポルトガル人と衝突
1609 ポルトガル船長崎港外で爆沈
1614 在日のバテレンらは幕府により追放の通達
1614 長崎のすべての教会破壊さる。
1626 水野河内守、奉行就任と同時にキリシタン弾圧を強化
1627 島原藩主松倉重政、パウロ内堀作右衛門ら16人を雲仙地獄に投げ込んで拷問、全員殉教す。(地獄責めの始まり)
1633 潜入バテレン、穴吊りの刑を受ける者多し。
1634 幕府、ポルトガル人を収容するため、長崎町人のうち富裕な者25人に命じて出島を築かせる。
1636 長崎生まれのポルトガル人との混血男女287人、マカオに追放
1637 島原・天草の乱起こる。
1639 幕府、ポルトガル船の日本渡航を禁止
1640 ポルトガル船、貿易再開を求めて来航
(→幕府、使節ら61名を西坂で処刑)
1641 平戸オランダ商館を出島へ移転させる。
福岡藩に長崎港の警備を命じる。(→翌年から佐賀藩との隔年交代)
1647 ポルトガル船2隻、修好回復を求め長崎に入港
→長崎奉行は、福岡藩・佐賀藩・熊本藩など長崎警備を担当する諸藩に出陣を命じた。

 

[1] 大君外交の海外情報ルート

(1) 1639年 ポルトガルとの断交(鎖国)

1630年代、朝鮮・琉球との間に日本を中心とする国際社会を形成し、東アジアにその位置を占めた。
日本国大君(将軍)の名で外交を行ったが、しかしポルトガルと断交した。

(2) 四つの海外情報入手口

長崎だけが海外情報の入手口ではなかった。

(1)長崎:中国・オランダ
(2)対馬:朝鮮
(3)薩摩:琉球
(4)松前:蝦夷地

1)幕府の情報収集の関心は、清(中国)、ポルトガル・スペインの南蛮が活動する奥国(東南アジア)に向けられた。
2)対明政策(勘合復活)の一環として、対馬口‐朝鮮、薩摩口‐琉球、松前口‐蝦夷地の関係が形成された。
3)対明政策の挫折後、長崎が幕府の海外貿易港として位置づけられた。

(3) 1640年 東京(トンキン)船、交趾(コオチ)船、東埔寨(カンボジア)船が長崎へ入港 (←東京、交趾、東埔寨を起帆地とする中国船)

幕府は、マカオ・ルソンラインを跨いで日本と東南アジアを往来する中国船とバタビアを本拠地とするオランダ船に、東南アジアの情報(ポルトガル、スペインの東南アジアでの活動に関する情報)を期待した。(→1644年 オランダが和蘭風説書を提出)

(4) 1674年 幕府は、中国船が長崎にもたらす唐船風説書の内容を定型化

(5) 1710、1717年 蝦夷錦・青玉等の山丹交易品が北高麗(沿海州)→タライカ→宗谷(大陸→樺太→蝦夷地)ルートで入ってくることを、幕府が松前に派遣した巡見使は松前藩から聞き出した。

鎖国令の発効以後は、「四つの口」、すなわち長崎口、薩摩口、対馬口、松前口から入ってくる、つまり、限定された場所から入ってくる、制限された異国・異域(オランダ、清国、琉球、朝鮮、アイヌ、ロシア及びそれらの周辺の国家や地方)に関する、わずかな情報しか手にすることができなくなってしまった。また、直接海外に出て行って海外情報を入手するということは、全く望むべくもなかった。

[2] 長 崎 聞 役

(1) 長崎聞役とは

長崎聞役とは、西国14藩が幕府直轄地長崎に置いた役職で、長崎奉行からの指示を国元に伝えるほか、貿易品の調達、諸藩との情報交換を主たる任務とした。

「長崎聞役は、日本唯一の国際都市長崎における『外交官』であった。」

聞役の官舎である蔵屋敷は、貿易品の調達や長崎奉行からの連絡の取り次ぎにあたったが、長崎におかれた諜報機関としての性格を色濃く持っていた。

 長崎聞役の別称:長崎聞番役、長崎聞継役、長崎在役、長崎在番、長崎番など

(2) 長崎聞役の設置

1647年(正保四年)6月24日、2艘のポルトガル船、長崎沖の伊王崎に来航
→長崎奉行は、福岡藩・佐賀藩・熊本藩など長崎警備を担当する諸藩に出陣を命じた。

  • 諸 藩 出 陣 人 数 表

  • 氏 名 城地・所属 石 高 出陣人数 出陣乗衆 出陣水夫 船数
    黒田忠之 筑前福岡 433,100 17,730 14,776 2,954 215
    細川光尚 肥後熊本 540,000 11,301 6,405 4,896 350
    鍋島勝茂 肥前佐賀 357,000 8,350 5,045 1,305 150
    松平定行 伊勢桑名 150,000 6,311 3,696 2,615 160
    立花忠茂 筑後柳川 109,600 3,870 3,000 870 0
    寺沢堅高 肥前唐津 81,600 3,505 2,720 685 70
    小笠原長次 豊前中津 80,000 1,678 1,328 350 0
    松平定房 松平定行弟 30,000 1,190 630 506 0
    大村純忠 肥前大村 27,900 2,603 1,580 1,023 0
    合計     56,538      
    筏船(船橋用)           320
    高力忠房 肥前島原 40,000       35
    長村内蔵助 平戸藩家臣         10

    『正保四年亥六月二十四日長崎へ黒船入津ニ付長村内蔵助罷越候覚』による

    ・長崎奉行馬場三郎左衛門は、西国目付である高力忠房(島原藩主)・日根野吉明(豊後府内藩主)と共に采配を振い、大目付井上政重・江戸詰め長崎奉行の山崎正信の到着と近隣諸藩お来援を待って、ポルトガル船の港内封じこめを行った。ポルトガル使節側は驚いて臨戦体制に入ったが、不利な状況から日本側の申出に従い退去するに至った。

    この事件の教訓から、有事の際に迅速に対応できるよう、長崎奉行所と近隣諸藩との関係を密にするために、長崎と諸藩国許との連絡に従事する家臣の長崎駐在が必要とされた。「附人」(聞役)が元禄元年(1688年)までに14藩に設置された。

     <定詰

       福岡、佐賀、熊本、対馬、平戸、小倉の6藩

     <夏詰>

       薩摩、長州、久留米、柳川、島原、唐津、大村、五島の8藩

     

    西国14藩長崎聞役一覧表(文化5年頃)

      藩 名 藩 主 聞 役 諸藩蔵屋敷 長崎警備の任務
    福岡藩 黒田斉晴 定詰 立花善太夫 浦五島町 沖「両番所」詰
    佐賀藩 鍋島斉直 定詰 関 傳之允 大黒町 同上・深堀在番
    熊本藩 細川斉滋 定詰 長尾平太夫 大黒町 番船詰(10月→翌5月)
    対馬藩 宗 義功 定詰 橋邊作右衛門 榮町 同藩周辺海域警備
    平戸藩 松浦 煕 定詰 宗像平次右衛門 大黒町 同上
    小倉藩 小笠原忠固 定詰 明石興次経兵衛 新町 同上
    薩摩藩 島津斉宣 夏詰 上野善兵衛 西浜町 同上
    長州藩 毛利斉房 夏詰 山縣伊八郎 新町 同上
    久留米藩 有馬頼貴 夏詰 坪地八右衛門 西浜町 同上
    10 柳川藩 立花鑑賢 夏詰 由布七右衛門 浦五島町 (有事の来援)
    11 島原藩 松平忠馬 夏詰 鵜殿七郎右衛門 大黒町 番船詰(6月→9月)
    12 唐津藩 水野忠光 夏詰 小林大登 東中町 (有事の来援)
    13 大村藩 大村純昌 夏詰 松浦鐵十郎 西中町 市中警備・同藩領海警備
    14 五島藩 五島盛運 夏詰 大濱典膳 西中町 同藩周辺海域警備

    *「崎陽郡談」、「通航一覧」第六、「長崎県史」対外交渉編により梶 輝行氏作成。
    尚、長崎港及び藩領図は別紙

    (3) 長崎聞役の職務

    1)政治的連絡(長崎奉行と藩との間)

    2)経済的側面(国産販売・金員調達など)

    3)自藩出身者(商人を含む)往来の掌握

       ⇒ 別紙「長崎聞役の職務内容」参照

    (4) 長崎聞役の情報網

    1)長崎支配関係 2)唐船関係
    3)朝鮮貿易・漂着関係 4)琉球貿易関係
    5)長崎市場関係 6)藩庁・諸国藩屋敷関係
    7)幕府関係 8)他藩・周辺地域関係

    ⇒ 別紙「長崎聞役の情報網

    (5)「ペリー来航予告情報」の伝達と情報の漏洩

    ・1853年7月21日(嘉永5年6月5日)
    オランダ商館長ドンケル・クルチウス、オランダ風説書提出(→長崎奉行)

    ・1853年7月26日(嘉永5年6月10日)
    オランダ商館長ドンケル・クルチウス、別段風説書提出(→長崎奉行)
    この別段風説書に「ペリー来航予告情報」が載せられていた。  

     ⇒長崎奉行所では、箝口令が敷かれ、かつ、翻訳場所が隔離されて、さらに翻訳草稿などの書類持ち出しが一切禁止されたので、長崎奉行、長崎目付、翻訳担当通詞以外は、この情報にアクセスすることは、ほとんどできなかった。

    ・薩摩藩聞役大迫源七は「ペリー来航予告情報」を翻訳担当通詞から口述聞き書きで入手し、これを家老へ送り藩主斉彬まで達した。斉彬は、この情報により米国との戦闘に発展した場合を想定して、山手方面に屋敷を入手する運動を幕府に対し展開し、翌嘉永6年1月に渋谷邸入手に成功した。

    ・浦賀奉行同心が、相州警備担当の川越藩の相州諸役に対し「ペリー来航予告情報」を語った。

    ・オランダからの「ペリー来航予告情報」に対して幕府は何ら対策を講じなかった。

    ・浦賀奉行所与力飯塚久米三郎は「オランダ人が一年前に予告したとおり、ペリーの名前、艦船数はすべて一致した。ただ4月というところが6月になっただけだった。」と幕府に報告した。

    (6) 長崎聞役の帰国

    ・開国後も長崎蔵屋敷は幕末に至るまで活動を続け、長崎で各藩が自由貿易に邁進するようになると、「商会」と改名して国産品を輸出し、艦船や鉄砲などを輸入した。長崎聞役も廃止されることなく情報収集活動を継続し、貿易にも従事した。

    ・明治2年(1869)3月、明治政府行政官は、長崎聞役に帰国を命じるよう長崎府に通達した。長崎府判事楠本平之允・御用掛坂田諸之進は、諸藩聞役を招集してこの通達を伝えた。元禄期に確立した長崎聞役は、ここに歴史的使命を終え、消滅する事になった。

    《参考文献》

    書   名

    著  者

    出 版 社

    1.「長崎聞役と情報」 梶  輝行  
    2.「大君外交の海外情報ルート」 紙屋 敦之  
    3.「嘉永五年・長崎発、『ペリー来航予告情報』をめぐって」 岩下 哲典  
    *上記は「近世日本の海外情報」掲載された論文    
    4. 「近世日本の海外情報 岩下 哲典 編 岩田書院
    5.「長崎聞役日記‐幕末の情報戦争‐」  (ちくま新書) 山本 博文 筑摩書房
    6.「県史42 長崎県の歴史」 瀬野 精一郎他 山川出版社
    7.「長崎町尽し 総町編」 嘉村 国男 長崎文献社

     

    (追記)

    ・長崎聞役日記‐幕末の情報戦争‐」の“はしがき”にて、著者の山本博文氏は「江戸時代の西国諸藩に設置された長崎聞役(ききやく)という役職には、あまりなじみがないかもしれない。四万項目以上を誇る吉川弘文館の『国史大辞典』にも立項されていない。しかし、江戸時代の対外関係や政治のあり方を考えると重要な役職であった。」と記している。

    ・数冊の日本史辞典で「長崎聞役」を捜したが載っていなかった。

    ・「長崎聞役」をインターネットのサーチ・エンジンで検索すると、「長崎聞役日記」と「近世日本の海外情報」が出てきた。

    ・小説では、白石一郎氏の「十時半睡事件帖『観音妖女』」の第一話「老狂恋道行(おいぐるいこいのみちゆき)」に、『内蔵助はたしか二十年ちかく長崎の聞役座に詰めていたはずだ。』という風に登場する個所あり。

    以 上

     

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