長崎橋物語

−中島川にかかるアーチ橋の起源とロマン−

レポーター:堀 憲昭


<はじめに>
・長崎市指定文化財の石橋(国指定重要文化財1橋、市指定文化財10橋)
・昭和57年長崎水害で中島川にかかる石橋流失(半壊3橋、全壊10橋)
 (眼鏡橋、桃渓橋、袋橋が半壊、大井手橋、編笠橋、古町橋、一覧橋、竿原橋、東新橋が全壊)
・石橋復元の署名活動、青年会議所が流失石材の回収奉仕など市民運動に頴頴
・3橋原形復元、2橋コンクリートに全面石張り、4橋を石橋に復元
 石橋は長崎の歴史を語る文化財>>洪水後沿道公園整備・観光スポット

1)眼鏡橋は流れなかった
・1634(寛永11)年に眼鏡橋を造ったのは中国の僧・黙子(もくす)如定
・黙子は興福寺2代目住職、1632年渡来した中国人。江西省建昌県出身
・東慮庵(幻寄山房げんきさんぼう)という隠居所を建て、そこから石橋を造った僧侶排出
・岩国錦帯橋設計の独立(どくりゅう)僧侶もここから出た(東慮庵に寝泊りした)
・隠元和尚を招聘する12人の署名(1653年)にある長崎の中国人に石橋寄進者が(高一覧)
・1648年、平戸好夢が修復した。彼は出島築造にかかわった説あり
 1721年の洪水で無事、1795年の洪水で欄干半壊、1982年洪水で半壊、流失せず

2)2つの橋を寄進した唐通事・高一覧の生涯
・大手橋(西山川・新大工町入口、1650年)、一覧橋(桶屋町・麹屋町間、1657年)を寄進
・高一覧は中国福建省出身の高寿寛の子として鹿児島川内に生まれ、16歳で明に留学、
 26歳のとき帰国し、やがて長崎へ移り住み21歳下の女性と結婚
・日本名深見久兵衛として1641年、39歳で小通事となり、1643年に大通事に
・隠元を招聘する12人に名前を連ねる
・次男高玄岱(こうげんたい)は47歳のときの子で後に林道栄と並ぶ通事

3)橋の寄進は1650年代からブームに(上流から一覧)
・一瀬橋(蛍茶屋・1653年・陳道隆寄進・唐通事・日本名頴川藤左衛門)
・中川(なかご)橋(鳴滝川・1654年・唐通事林守殿が私費で寄進・林仁兵衛)
・阿弥陀橋(伊勢町・1690年・唐貿易商園山善爾が私費で寄進・1721年洪水でも無事)
・高麗橋(伊勢町・1652年・興福寺壇徒中国人が寄進・1866年池島正助架け替え寄進)
・桃渓(ももたに)橋(西山川・1679年・中国人の寄付で寄進・1721年洪水でも半壊)
・大井手橋(大井手町・1698年・日本人岡正敏寄進・唐通事林道栄が銘を作る)
・編笠橋(今博多町・1689年・岸村夫妻寄進・橋銘由来に遊女通いの逸話)
・ススキ原(ススキ:草冠に千)橋(1681年・寄進者不明・洪水で全壊のたびに町民寄付で架橋)
・東新(ひがししん)橋(市民会館横・1673年・寄進者不明・洪水でたびたび全壊)
・魚市橋(現在はない・1689年・岡正恒私費で寄進・高玄岱銘・洪水ごとに全壊)
・袋橋(袋町・1647年に木廊橋との記録・アーチ起源は不明・洪水ごとに全壊)

  *長崎には屋根をつけた橋が二つあり、その一つが袋橋

 

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