長崎楽会例会資料 平成131024()

「 高 島 秋 帆 と 徳 丸 原 」発表要旨

板橋区立郷土資料館 小西雅徳  

 

はじめに

 高島秋帆は、長崎の名門町年寄家の三男として生まれた。長じて高島家を継いだが、その文明開化的な性格が彼の人生に花を添えると同時に、晩年は悲運の中に置かれた。しかし今日の評価では、むしろ幕末維新における動乱期の先駆けをなす人物群の一角に、その名の地歩を築きつつある。高島秋帆畢生の快挙と言われた徳丸原洋式調練を通じ、彼の足跡を改めて検証したい。

 

1、徳丸原洋式調練以前

 長崎の高島家別邸(本宅は天保九年に焼失)には、洋書136冊、三人持石火矢5、五人持石火矢19、十人持石火矢20、五十人持石火矢7、新製石火矢3、太鼓張石火矢3、五十匁筒等370、種子島303、武具上下70、古刀槍等多数、玉薬塩硝入蔵1、唐物入蔵1、その他蔵5があったという(秋帆逮捕時の調書)。

 天保12年正月早々に江戸へ出立する時点で、以上の内容を所蔵していたと思われる。これに徳丸原で使用した大砲類が加わる。高島家個人の所蔵としては如何にも多い内容であろう。この年は、ちょうど高島秋帆の「江戸御目見参府」年にあたり、また前年幕府へ長崎奉行を通じて提出していたアヘン戦争に伴う天保上書が幕閣で討議され、急遽江戸への参府を急がされた時でもあった。出立にあたり長崎会所へ支度金を申し出ている。

 

2、徳丸原洋式調練への道程

1月22日、息子浅五郎ら27名の門弟らと長崎を出立。

2月7日、江戸長崎屋へ到着(大砲類は海路と陸路、小銃類は携行した)。

3月、諸組与力格・長崎会所調役頭取を拝命。

4月朔日、大御所に「御目見」。

4月12日、「徳丸原火術御見分之儀」を伝達。        〇対馬藩中屋敷を借用練習

5月7日昼、武州豊島郡赤塚村の松月院に集合。        (5月末まで使用)

5月8日、予行演習。

5月9日、調練開始。翌日、松月院を引き上げる

 

3、徳丸原洋式調練の実際

プログラムとして8項目の演習がおこなわれた。概要以下の通りある。

1、     モルチール砲の操練(ボンベン-榴弾、8町目先へ3発)

2、     モルチール砲の操練(ブランドコーゲル-焼夷弾、8町目先へ2発)

3、     ホーウイッスル砲の操練(ガラナート-柘榴弾、8町目先へ2発)

4、     ホーウイッスル砲の操練(ドロイフコーゲル-葡萄弾、4町目先へ1発)

5、     馬上筒の操練(1往復3挺使用)

6、     ゲベール銃備打(秋帆・浅五郎の指揮で97名が一斉射撃)

7、     野戦筒の操練(3門の砲を使用)

8、     剣付ゲベール銃による銃隊調練(99名)

 

4、徳丸原洋式調練以後の高島秋帆

 天保12年7月、幕府が高島秋帆所持の大砲4門を520両で買い上げし

更に秋帆自身へ銀200枚を下賜した。

6月下曽根に西洋式砲術の免許皆伝。

7月12日江戸を出立。

8月22日長崎到着。 

天保13年10月2日秋帆を拘束

天保14年1月19日長崎出立。

2月江戸上伝馬町の揚がり屋入り。

弘化2年2月22日水野越前守罷免。

弘化3年7月25日高島秋帆への判決後、

中追放され埼玉県岡部藩に幽閉。

嘉永6年8月6日、老中阿部から江川へ赦免状が出、高島秋帆釈放(10年10ヶ月)。

嘉永6年10月、嘉永上書提出。高島秋帆から高島喜平と改称する。

嘉永6年8月15日、品川台場構築にあたり海防掛御用取扱手付となる。

江川塾塾頭となる(西洋砲術指南)。

安政元年5月13日、構武所開設後、安政2年7月御鉄砲方手付教授方頭取を拝命。

安政3年、「火技中興洋兵開基」の印を使用。

万延元年、小石川小十人町に居住。

文久2年、構武所奉行支配。

慶応2年1月14日、病没(69歳)。

 

5、おわりに

 高島秋帆の人生は、徳丸原以前と以後とで大きく変化した。その絶頂期は、多分、徳丸原洋式調練のため江戸に滞在した半年間に集約されよう。翌年の秋以降は不運な人生を歩まざるを得なかったが、その一端には、武家と町人(町年寄)との身分階級が厳然と存在していたことに注意する必要があろう。

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