麦酒 ビール びーる
レポーター:染谷重雄


■ビールをはじめとする様々な酒、酒造りについては「酸造学」なる学問があります。
 しかし、これらの学問ができる以前から旨い酒は造られ、飲まれてきました。
 ビール造りが学問に裏付けされ、巨大な装置産業と位置付けられている現在でも、
 伝統的な醸造方法を頑なに守り続けている醸造所、近代的な装置を用いて大量生産を
 しながらも200年以上前から醸造設備指を使い当時のビールを造っている醸造所等が
 ヨーロッパにはまだまだあります。そして、ビールを飲むこと自体が生活の一部に
 なっています。まさに「酒=ビールは生活文化」です。
 ビールは約5000年前に誕生し、16〜19泄紀のヨーロッパで成熟しました。
 日本はまだ100年程度の歴史しかありませんが、急速に普及し今では世界第5位
 の消費国(国別1人当り消費量は25位)にまでなりました。
 今回、ビールの誕生から成熟までと、日本人とビールに関するサマリーをお届け
 致します。もっと美昧しく、もっと楽しく、もっと幸せを感じてビールが飲める
 おつまみになれば幸甚です。
[1] ビール 5000年の歴史  <教科書的説明>

ビールの発祥 紀元前3500〜3000年頃
 人類の農耕文化発祥の地である、ティグリス・ユーフラテス両河の肥沃な三目月
 地帯の南側で高度な文明を築いたシュメール人が耕作、収穫し瓶に入れて保存
 していたエンメル麦が冠水し空気中の酵母の働きで偶然にできた腐敗酒がルーツ
 と云われています。
・穀物はぶどう等の果実や牛乳の様にそのままでは発酵せず、発芽させないと発酵
 しません。当時のシュメール人は収穫した麦を発芽させモヤシにする又は煮て
 穀物粥にして食していた様で、食べ残しが発酵した……これは冗談

古代のビール<記録に残されたビール> 紀元前3000〜1700年
 古代エジプト人はシュメール人と異なり、ビールを工程に基づき造っていました。
 麦を発芽させパンを作る(BEER BREAD)それを砕いて水に溶かして壷に入れて
 蓋をして発酵させて造る方法は今のビール醸造と基本的に同じです。
 ・ビールは単なるアルコール飲料としてではな<、当時は医薬品でもあり
 滋養食品でもありました。
 古代の為政者にとってビールは貴重品だったことから、最古の成文法バビロニアの
 ハムラビ法典にもビールに関する条項があります。


ハムラビ法典
108条 「もしビール酒場の女が、ビールの代金を穀物で受け取らず、
    銀で受け取るか、或いは穀物の分量に比べてビールの分量を
    場減らした合には、その女は罰せられて水の中に投げ込まれる。」
    
110条 「もしも尼僧院に住まない尼僧、或いは高位の尼僧でも、また
    ビール酒場を開いたり、ビールを飲みに立寄った場合は、
    火あぶりにさせられる。」
    
中世のビール
<修道院ビール〉
 混乱の時代だった中世のヨーロッパでは、学間や技術の実践は主に修道院で行われ
 ビール醸造も修道院が中心になっていました。修道院のビールは巡礼者への施しや
 白分達の大切な栄養源でもありました。 (1日200人以上に施しをした修道院も
 あった)
 ・飲みすぎに注意!
  イギリスの修道院ではビールの飲みすぎに対する戒めがありました。
  1.聖歌を歌う時、舌がもつれるほどに飲んだ場合は、12日間をパンと
   水だけで過ごし贖罪する。
  2.反吐を吐くほど飲んだ場合は、30日間の贖罪。
  3.聖なるパンを吐き出すほど飲んだ場合は、90目間の贖罪。

<ビールとホヅプ> ビール純粋令
修道院等を中心に盛んにビールが造られていた中世では、まだ酵母によるアルコール
発酵が化学的に解明されていなかったため、慣れたビール職人が造ったものでも
酸っぱくてまずいビールやすぐダメになるビールがしばしばできてしまいました。
それらを補うために、月桂樹・ヨモギ・アニス・ショウガ等のハーブやスパイス類の
薬草が用いられていました。これらの薬草を複数混ぜたものをグルートとよばれ、
13〜14世紀のビールはグルートビールでした。
その後15世紀頃になりホップのみを用いたビール=ホップビールが主流となりました。
それは、ホップの抗菌性(腐敗→変質防止=濁りの防止)と爽快な香味が優れていた
からでした。ホップはビールを造ること飲むことの双方に恩恵を与えたと云えます。 
16世紀にはバイエルンの君主ウィルヘルム4世はビールを麦とホップと水だけで造る
ことを定めました=ビール純粋令」これは現在でもドイツ国内では守られています。
・ビールの香り/ホップの香りは処女の香り
ホップはクワ科の宿根多年生・雌雄異株の植物です。ビールの香味等の元は雌株の
鞠花の中の黄金色の穎粒=ルプリンなのですが、この鞠花は受精してしまうと香味
成分が劣化してしまうため、未受精のものしか用いません。
近代のビール
<ラガービール>
 イギリスのエールビールを除く大半のビールは下面発酵の低温長期熟成で造られた
 ラガービールです。ラガー=LAGER(熟成)。 この淡色ビールは、1839年チェコの
 ピルゼン市民醸造所(現在のピルスナー・ウルケル杜)で初めて造られたビールが
 元になっています。
・バドワィザーは何処のビール?
 19世紀にチェコのボヘミア南部ブジェヨヴァイツェという町の蒸留所で造られ
 ていたラガービールはブドヴァイゼル・ブドヴァル(BUDWEISER BUDVAR)と名
 付けられていました。一方、ドイツ系アメリカ人、エルバート・アンホイザーと
 アドルファス・ブッシュがアメリカでビール会社を起こし、バドワィザーと名付
 けて製品化しました。その後当然、商標件の争いになり今ではバドワィザーは
 ヨーロツパでの販売ができないことになっています。

<ビール醸造の産業化>
 酵母によるアルコール発酵の化学的解明はフランス人 ルイ・パスツールが19世紀
 に成し遂げました。それにより、酵母の働きをコントロールすることが可能になり日
 持ちの良いビールを造ることができるようになりました。
 酵母を殺さず発酵を止める低温殺菌=パストリゼーション
 ビール醸造を近代化させた3大発明とは、この酵母によるアルコール発酵現象の
 解明の他にリンデンの圧縮式アンモニア冷凍機とハンゼンの酵母純粋培養機があり、
 これにより季節に拘ることなく常に安定した品質のビールを造ることができる様に
 なりました。
・当時のビール醸造技術はイギリスが最も進んでいて、産業革命の推進役の1つ
 である、ワットの蒸気機関もビール醸造所がはじめて導入しました。

■この様に約5000年前に偶然生れたビールは、自然の恵みと人々の英知に育まれ
 今では世界で最も親しまれている酒になりました。日本、日本人とビールの関係は
 約100年程ですが、現在の様に大衆化したのは高度成長期以降のことです。
 
 次に日本人とビールの関係の要約をお話します。
[2]日本、日本人とビール  <できる限り長崎との関係>

ビール日本上陸  <ビールが初めて日本に上陸したのは長崎>
 1541年フランシスコ・ザビエルの以降、他の宣教師たちが来日をするが、ワイン
 の記録はあるがビールを持ってきたと云う記録はない。ビールが初めて日本に
 現れたのは、1613年6月 ジェームス1世イギリス国王が派遣した通商親善大使
 ジョン・セリーヌが長崎 平戸に到着し、オランダ商館長コヅクスに送った品の中
 にありました。

・この贈り物は、平戸領主松浦鎮信たちが、コックスの紹介でイギリス艦を訪問
 したことを、ジョン・セリーヌが喜びコックスに送られたものでした。
 送られたビールがオランダ人たちだけで飲んだのか、日本人もご相伴したのか
 は不明です。

幕末にビールを飲む日本人
 □1724年建部清庵、杉田玄白の「和蘭間答」の中でオランダ高官からもらって
  ビールを飲んだ記録があります。
   『酒はぶどうにて作り申し侯、又 麦にても作り申し侯、麦酒給見由侯処、
   殊外悪敷物にて、何のあぢはひも無御座侯、名はビイルと申し侯』
・話しでは、大の酒好きだった幕末の蘭学者川本幸民が、ビールの詳しい作り方も
 ある「化学新書」を訳したことから、初めてビールを造ったと…
 口1860年 江戸幕府第一回遺米使節団の1人 仙台藩士 玉虫左太夫の記録。
   (品川出港後12目目、船上でワシントンの誕生パーティーが催された時)
   『小音楽隊の音楽→ 極めて野鄙、聞クニ足ラズ』
   『料理/肉饅頭・焼鳥(チキン?)・蒸餅(?)
          → 臭気鼻ヲ衝キ、予輩ノ口ニ合ズ』
   『酒一壺アリ。ビールト云フ。一喫ス。 苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足ル』
・日本男子として西洋カブレしまいとの意志とは別にビールは結構いけた模様だった。
 口1862年江戸幕府派遣第一回オランダ留学生
  品川沖を出港し長崎経由でバタビア・セントヘレナ島を経由して324日目に
  オランダに到着。バタビアでの留学生の日記にあるビール。
   『就中暑中に氷を麦酒に落し、又は氷を以って菓子を製したものが美味しかった』
  <沢太郎左衛門>
   『此地常ニ暑炎、而シテ氷ヲカリホノレニアヨリ購入ス。晩餐、之ヲ麦酒内ニ投ジテ
   涼飲ヲ取ル。快甚シ。余、素ヨリ酒ヲ嗜ム。麦酒モ亦人ニ勝ルコト一層、
   是ニ至リ蘭医厳ニ之ヲ禁ズ。』<西 周助>
口1867年大阪城でイギリス行使パークスと会見する将軍慶喜の親衛隊(歩兵差図役頭取)
  の兄弟がビールを酌交わす大変貴重な1枚の写真
 
 

ビーノレと目本人の相性を認めたイギリス人
 初代駐日イギリス公使、ラザフォード・オールコック卿は1859年に広東領事から転任
 し、将軍家茂に謁見しエリザベス女王の信任状を捧呈してから約3年間日本に滞在しました。
 その間の滞在期「大君の都」 (1863年ニューヨークで出版)の中で目本人の嗜好、生活感覚の
 変化を鋭く読み取っています。
 ・食事を共にする、通訳や外国奉有等の侍がシャンペンや肉を拒否せずに飲食しているのを
  見て「かれらは良き仏教徒と思われるようなふりをすることができないようだ」
 ・特に工一ル(イギリスビール)とコーヒーの愛好者だ。日本人はわれわれヨーロッパの
 ぜいたく品の多くの消費者たらしめるには、その機会が必要なだけだと思う。」

獄中からの手紙にあるビール
 オランダ留学から帰国した榎本武揚は、創設されたばかりの長崎海軍伝習所に二期生として
 入所し砲艦ヤッパン号(後の威臨丸)に乗込んで約2年の訓練を受けました。 (一期生には
 勝海舟等がいた)1868年榎本は開陽丸以下の幕府の艦隊を率いて北海道に向かい函館を
 占領し、五稜郭に拠って政府軍と戦い翌69年に降伏し、投獄されました。
 ・獄中からの手紙−1 妻たつ宛
  「大晦目之好新聞元旦早朝拝見一同大悦いたし申候、且麦酒沢山に御贈被下昨目も
   今目もたっぷり相用うきうきと春を迎申侯、御まゑにも不相替御丈夫之由手前事も
   寒サ之障も無之罷在御同様同慶之至二存侯、いづれ此度こそは多分近々に壱ツ所に
   朝タヲくらし候様相成可御待受可被下候、乍末林御両親様並研海兄えも御享ゑより
   よろしく御申上可被下侯、以上
      釜次郎
             正戸初二
                    御たつとのへ 」

 

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