『茂吉の足跡』-歌人斎藤茂吉が愛した長崎の町と人-レポーター:今宮五良


@茂吉の長崎第一歩

 

 

佐賀驛を汽車すぐるとき灰色の雲寒き山をしばし目守れり
さむざむとしぐれ来にけり朝鮮の近き空よりしぐれ来ぬらむ
長崎のみなとの色に見入るとき遥けくも吾は来りけるかも
しらぬひ筑紫の國の長崎にしはぶきにつつ一夜ねにけり
しずかなる港のいろや朝飯のしろく息たつを食ひつつおもふ
朝あけて船より鳴れる太笛のこだまはながし竝みよろふ山
歌集「あらたま」巻末 長崎へ

A外国への窓

 

 

昭和28年から採用された教科書 柳田国男編『新しい国語 六年上』
<外国への窓>の冒頭に掲載
朝あけて船より鳴れる太笛のこだまはながし竝みよろふ山

B父今宮武雄にとっての茂吉

 

 

さまざまに長崎のこと人のうへを師は問ひ給ふまなこつむりて(昭和2年)
屋敷ならぶ青山の夜みちくらくして吾が靴の音たかくひびけり(昭和2年)
師の君と亡き娘との写真掲げゐてわが獨居の部屋に起き伏す(昭和20年)
斎藤先生長崎に居給ひし頃を知らず少年にして如何に過ぎにし吾か(昭和21年)
風の音静まりをりし暁に会ひまつる師を思ひつつぞゐる(昭和24年)
翁さびたまひしかなや紺の胸当に白鬚長く垂りたまひたり(昭和24年)
病み臥して蝋のごとくに清かりし先生の足忘らえなくに(昭和28年)
先生の歌碑は建ちたり仰ぎみて何をいはむとするにもあらず(昭和31年)

C病床の約束 茂吉と大久保仁男

 

 

仁男の墓に刻まれた辞世の歌
いささかの風にも今は荒れやすき園の千草に心したしむ
若き友ひとり傍に来つつ居りこの友もつひに病を持てり 茂吉

Dピナテールにこだわった茂吉

 

 

ピナテール 1846年、フランス・リヨン生まれ。1863年、18歳のとき長崎に渡来。父が住む出島町に同居。大正11年、77歳で死去。
うらがなしきゆふべなれどもピナテールが寝處おもひて心なごむ 茂吉

E長崎の茂吉歌碑

 

 

長崎市桜町公園「朝あけて...」
長崎市興福寺境内「長崎の昼しづかなる唐寺や思ひいづれば白きさるすべりの花」
小浜町海岸通り「ここに来て落日を見るを常とせり海の落日も忘れざるべし」
※佐賀県には@祐徳稲荷境内 A富士町古湯温泉 B唐津市舞鶴公園
C唐津市西の浜/木村旅館裏の4ヶ所にある  

F茂吉と母の死

 

 

大正2年5月、母いく死去。その前後の連作「死にたまふ母」59首は近代短歌の
絶唱とされる。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ
わが母を焼かねばならぬ火を持てり天つ空には見るものもなし
どくだみも薊の花も焼けゐたり人葬所の天明けぬれば
灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり  歌集「赤光」


斎藤茂吉年譜
明治15年 (1882)   5月14日、山形県南村山郡金瓶村に生まれる 父守谷熊次郎 母いく 三男
明治29年 (1896) 14歳 8月上京し、浅草区東三筋町斎藤紀一方に寄寓
9月、開成中学校第5級(第1学年第2学期)に編入学
明治35年 (1902) 20歳 9月、第一高等学校第3部に入学
明治38年 (1905) 23歳 1月、正岡子規遺稿『竹の里歌』を読み作歌の志を抱く
明治39年 (1906) 24歳 3月、初めて伊藤左千夫を訪問、『馬酔木』に歌5首が載る
明治41年 (1908) 26歳 9月、雑誌『アララギ』が創刊され、その第1号に短歌3首が載る
明治42年 (1909) 27歳 1月9日、観潮楼歌会に初めて出席 森?外、与謝野寛、上田敏、
石川啄木、木下杢太郎、吉井勇、北原白秋らと会う
明治43年 (1910) 28歳 12月、東京帝国大学医科大学医学科卒業
大正 2年 (1913) 31歳 10月、第1歌集『赤光』出版
大正 3年 (1914) 32歳 4月、斎藤紀一の次女輝子と結婚
大正 5年 (1916) 34歳 4月、『短歌私鈔』出版
大正 6年 (1917) 35歳 12月、長崎医学専門学校教授に任ぜられ、長崎に赴任、精神病学と法医学を講じる
8月、『童馬漫語』出版
大正10年 (1921) 39歳 1月、歌集『あらたま』出版
10月、海外留学の途に就く
大正11年 (1922) 40歳 1月、オーストリア・ウィーン大学神経学研究所マールブルク教授の指導を受ける
大正12年 (1923) 41歳 7月、ドイツ・ミュンヘン国立精神病学研究所シュビールマイエル教授の指導を受ける
大正13年 (1924) 42歳 12月、青山脳病院全焼 帰国途上の船中にてその報を受ける
大正14年 (1925) 43歳 1月、帰国 病院再建に奔走する
大正15年 (1926) 44歳 5月、『アララギ』の編集発行人となる
昭和 2年 (1927) 45歳 4月、青山脳病院長の職を継ぐ
昭和 4年 (1929) 47歳 4月、『短歌写生の説』出版
昭和 9年 (1934) 52歳 8月、蔵王山上に歌碑がたつ
11月、『柿本人麻呂』出版
昭和12年 (1937) 55歳 6月、芸術院会員となる
昭和15年 (1940) 58歳 5月、『柿本人麻呂』の業績により、学士院賞受ける この年、歌集『寒雲』
『暁紅』、随筆集『不断経』などを出版
昭和17年 (1942) 60歳 歌集『白桃』、『伊藤左千夫』等を出版 『作歌四十年』を執筆
昭和18年 (1943) 61歳 歌集『のぼり路』、『源実朝』出版
昭和20年 (1945) 63歳 4月、山形県上山市金瓶に疎開
昭和21年 (1946) 64歳 1月、山形県大石田町に移る
昭和22年 (1947) 65歳 4月、『作歌実語鈔』出版
11月、大石田町より東京都世田谷区代田に引き上げる
昭和24年 (1949) 67歳 歌集『小園』『白き山』出版
昭和25年 (1950) 68歳 11月、新宿区大京町の新居に移る
昭和26年 (1951) 69歳 11月、文化勲章を受ける
昭和27年 (1952) 70歳 5月、『斎藤茂吉全集』(全56巻・岩波書店)発刊
昭和28年 (1953)   2月25日逝去 享年70歳9ヶ月
戒名『赤光院仁譽遊阿暁寂清居士』は生前自ら選ぶ

 

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