江戸時代の長崎港の警備

〜長崎近隣諸藩の藩政確立との関わりから〜

レポーター 加藤 健


2003年5月28日(水)
長崎楽会2003年5月例会レジュメ
報告者:加藤 健
   江戸時代の長崎港の警備
〜長崎近隣諸藩の藩政確立との関わりから〜



はじめに
○長崎防備体制とは
 「鎮国」体制の具体的な方法面
  長崎警備を中心とする全国的な沿岸警備体制が厳重に施行されている
  
1、長崎防備体制の成立
○寛永15(1638)年、天草・島原の乱終了
○寛永16(1639)年、ポルトガル船の来航禁止及ぴ帰帆を決定
○    7月4日、伝達するために太田資宗を長碕へ派遣
○    8月9日、細川忠利(肥後熊本藩主)・黒田忠之(筑前福岡藩主)・
         有馬豊氏(筑後久留米藩主)・鍋島勝茂(肥前佐賀藩主)・
         立花宗茂(筑後柳川藩隠屠)を登城
       この時の指示
        ・ポルトガル船が来航したら長碕・江戸に注進すること
        ・長碕へ人を遣わして御用を承ること、
        ・島原藩主高力忠房とも相談すること
○    8月10日、大村純信(肥前大村藩主)・五島盛利(肥前福江藩主)・
         松浦鎮信(肥前平戸藩主)・寺択堅高(肥前唐津藩主)・
         相良頼寛(肥後人吉藩主)に領分の入念な監視を命じた。
     .',九州藷大名に長崎警備を義務付ける防衛体御の構築の開始
○寛永17(1640)年、通商再開の嘆願に来航したポルトガル船に対し、
         乗組員61名を斬首にして乗船の焼打ちを実行
         →この報復に備える必要性
○寛永18(1641)年、長崎港警備役である「長崎御番」福岡藩に命じる
         *平戸オランダ商館を出島へ移藪…させる
○寛永19(1642)年、佐賀藩に「長崎御番」を命じる→以後両藩が交代して勤番
○その他西国大名に対しては自領沿岸警備を課して、異国船の渡来・漂着に
 ついては長崎廻送を命じた
.'.長崎防備体制は幕府軍役の一環として、ポルトガル船渡来への監視と
  キリシタンの潜入を防止するため、長崎御番の福岡・佐賀藩を中心に
  長崎近騰諸藩がこれを補完して警戒にあたる体制

2、正保4年(1647)ポルトガル船来航時の諸藩の対応

a、ポルトガル船来航の背景

 1580年、スペイン王フェリペ2世が赤ルトガル王を兼任
 1640年、ブラガンサ公都貴族・知識人とリスポン王宮襲撃、スペインより独立
 1643年、新王の即位(スペインより独立)の報告と通商再開を求めて、
 ゴンサロ=デ=シケラ=デニソウサを日本に派遣することを決定
 1645年、リスボン出航→パタビア→マカオ→ゴア→琉球付近→マカオ
 1647年、長崎港外の伊王島到着(7月26日、和暦6月24日)
 
b、福岡藩
○正保4(1647)年の長崎御番の当番。足軽大頭飯田覚兵衛がわざわざ自ら
 実際に現場へ赴いてポルトガル船に対する警備を担当したいと望む。
 →時機に応じて動作が機敏で、本当に実行に移される。
 着実に職務を遂行し奉公に励む姿勢が示される。
○その他家臣等の行動として、黒田忠之がポルトガル船を乗っ取る作戦を
 考えた際、竹森左衛門が焼草船を提案した。これは「ミつから翁を捨、
 糞船に乗下知して黒船を焼討にすへき」もので、家臣等は決死の覚悟で
 取り組む。この作戦では佐賀藩が夥しい焼草を準備したので、長崎駐在
 の博多商人伊藤小左衛門と大賀惣右衛門は稲佐周辺の藁家を買い取って、
 いざという時に打ち壌して焼草にする準備をしたと申し出た。
 →他藩との対抗心を露骨に表したこと、御用商人までも献身的な行動を
  している。
○7月13日、総大将松平隠岐守定行が長商に到着し、翌日黒田忠之と相譲した。
 この際、もしポルトガル船を攻撃するように江戸より命令が出たら、当方
 からも兵を出したいと定行は言うが、忠之は、あなたは将軍の代理として
 来たので指図だけでよい、自分は長崎御番の当番だから、いつでも命令が
 あり次第すぐに福岡藩だけで攻撃するもりであると答えた。
 そこで、定行は、自分は将軍の御前において西国探題を命じられたので、
 ただ居るだけにはいかないと言った、これを受けて忠之は、上意ならば
 仕方がないと答える。
○長崎湾を封鎖することになった際、福岡藩のみで船橋を架けようとした。
○細川家やオランダ人の史料にも、福岡藩が警備を独占しようとする姿が
 映っている。

c、佐賀藩
○この年は非番たが、加勢として出動する。まず、家老の諌早豊前寄茂敬や
 鍋島志摩守茂里が長碕に赴いた。名代鍋島山城守直弘が現地に赴いた
 (藩主鍋島勝茂は参勤中)。
 6月27日より奉行と会談を行う。当番福岡藩長崎到着は29日。
 →藩領の地域的特性を利用して迅速にかつ機敏に対応して、情報収集に
  力を注いでいる様子が窺える。
○もしポルトガル船が長崎港から逃げようとするなら、鍋島家領の深堀は相対
 する地点なので、そこへ櫓を組んだ船を押し掛けて火矢を射ったらどうかと
 提案した。→警備の主導権を掌握する意向。
○自領内の100軒を壊して焼草にする計画→総動員体制で臨んでいる。
○ポルトガル船が不穏な行動した際に乗っ取るべきかと松平定行が尋ねた時、
 鍋島茂里は「被仰付期ハ何時モ鍋島一手ヲ以乗取可申」と返答。
 →警傭の主導権を掌握する意向。
○家老多久美作守茂辰は鍋島勝右衛門・大木兵部両人に対し、「今年は非番で
 あるが、もし先に福岡藩がポルトガル船を乗っ取ったならば、茂辰は切腹
 する心算である。
 この事態になったら両人は秘密にして敵の矢に命中して死んだ言ってほしい」
 と語る。→福岡藩への対抗意識が見られる。

d、熊本藩
○福岡・佐賀両藩に次ぐ大きな役割を果す。家老長岡監物是季が長崎に赴く際、
 熊本で大量の米を長崎に廻送するように命じた。その頃長崎では米価が急騰
 していたので、売り払った。→初期の段階から機に応じた迅速な行動を取る。
○長岡監物が船橋による長崎港封鎖を提案し、その独占を意図し、大船や材木
 など事前の準備の良さを訴える。
○藩主細川光尚が長岡勘解由延之に、長崎で綱を張る時、鍋嶋家が命じた船留
 よりも長岡勘解由の方が扱いが強く見えたことを聞き、大きな喜びある、と語る。
 →諸藩との比較を通して差違や優越性を表している。
○諸藩でポルトガル船への対応を議論レた際、長岡監物・同勘解由・石見弥次
 右衛門が、攻撃する時は当番の黒田家がー番手、二番手は鍋島家、三番手は
 細川家と命じられたが、藩士が待機している陣場の前を船が通航した時、
 一番が那黒田家なので当方へ来て戦闘を行うとしても、見物することは決して
 できない。だから、熊本藩の陣場前を通った時は、黒田家へ通告しないで攻撃
 したい、と主張する。→黒田家への対抗意識が表われている。
.'.長崎御番への参入も視野に入れての動向か。

e、大村藩
○長崎に隣接した藩として、長崎奉行の命に対して迅速な行動をとる。
 大村純信が病気であるにもかかわらず無理して自ら長崎に参上し、
 一旦は帰るが再ぴ赴いている。
○馬場三郎左衛門・高力忠房・日根野吉明の三人衆と相談の上、木鉢浦という
 場所に船を着けて警備に当たった。その後、近隣諸藩からも船が結集したら、
 大村藩は舟手は無用で陸上警備を命じられた。
 ところが、純信は陸上警備を命じられて異議を申し立てているので、この役割
 に不満感を有していたと思われる。→陸上警傭は地味でいわば裏方的な存在で
 あり、これに対して海上警備は有事の際には目立ちやすい。
○長崎港を封鎖する船橋が完成した時、次のような語が残っている。
  大村の家中ニ沢田宮内左衛門と云者あり、馬上の達者なりければ、
  彼の船橋の上にて指物二幌掛て、栗毛の馬の太く逞ニ乗て、長刀を
  振て南蛮人ニ見せければ、日本人ハ武勇強き上ニ羽翼ありと驚しと
  かや

 船橋の上でポルトガル人に対して示威行為を行う。見せる対象は幕府・他藩も
 含まれていたと思われる。すなわち、勤役に尽くす態度を表すため、武威に
 より大村藩の存在感を誇示したものと捉えることができる。

f、平戸藩
○長崎奉行馬場利重から兵の召集を命ずる書状が届き、家老長村内蔵助らが
 長崎に赴く(藩主松浦鎮信は参勤中)。しかし、馬場から自領沿岸警備を
 命じられる。これに対して内蔵助は、藩主は前々からこのような時の
 御奉公を第一に心掛けているので御用などを命じてほしい、と反論した。
 そして、上意を受け入れた上で、自分だけは長崎ニに留まって御用を承る
 と述べた。利重は、内蔵助の入念な申し訳の趣は藩主に委細言っておくと
 諭して帰国を命じた。
○その後、内蔵助は今年の長崎御番福岡藩主黒田忠之の宿舎に行き、面会が
 許可され、その場で馬場利重と内蔵助との交渉を話した。黒田家とは先代
 松浦隆信以来の入魂の間柄なので、平戸藩の船を浦内に置いてほしいと
 嘆願した。その結果、言い分は聞き入れられて、を警備するよう命じられ、
 ポルトガル船帰帆まで滞在した。

g、久留米藩
○蔵屋敷勤番栗生市有衛門は奉行所へ詰めたが、久留米藩だけ御用が命じ
られず不本意だった。そこで、機転を効かして、有馬忠頼はこのような
 時のために唐船碇百頭の御用を仰せ付け次第差し出すつもりであると
 述べて承認された。そこで、急遽用意を命じた。
○同藩の長崎誓備に対する考えは次の通りである。
 長崎御番福岡侯・佐賀侯の助ケ、御手当ハ熊本侯也、典次ハ此方様也、
 既に島原一揆蜂起の節ハ、長崎御手当として(中略)崎陽を固メられたり、
 いま治平の世とハいへども、異国諸蕃の襲来計るへからす、然れは別して
 御当家ハ武備を心懸る事当務の急なるべし
 すなわち、久留米藩は天草・島原の乱の際の陣立を背景に長崎警備の序列
 として福岡・佐賀・熊本の次の4番手と位置付けていた。したがって、
 確実に繋がりを持つ思惑を有していた。

h、その他の藷藩
ア、五島藩
○藩主五島盛次自身が長崎に参上して奉行衆へ伺いを立て、入念な心掛けが
江戸へ報告された。しかし、五島は異国船の通航路なので在所押えを命じ
 られた。そこで、帰国して7箇所の定番を11箇所に増やし、しぱらくの間は
 番所や島廻りなどを厳重に警戒するなど着実に奉公を遂行している。
イ、柳川藩
○攻撃の順序は四番手とされたが、ポルトガル船の航路を想定し防御用の大綱
を用意している。→熊本藩同様に陣場前を通航した際の一番手の攻撃の機会
 を窺っていたか。
ウ、薩摩藩
○久見崎まで軍勢を派遣している。しかし、長崎よりの触状で自領沿岸警備を
命じられて帰国している。同藩は長崎に派兵した他藩より遠距睡であり、
 しかも琉球を支配下に置く異国の押えの役を果していた。にもかかわらず、
 長崎警備に加わる意向を示した。

3、九州諾藩の藩政確立過程と幕藩関係

 幕藩制国家形成期における九州諸藩では、藩政を進める過程で種々の矛盾が
 出現したため、多くの藩で存続の危機に見まわれた。だから、自藩の存続が
 大きな課題であった。
 諸藩で現われた間題点は大きくa〜cの3つに分類することができる。
 
a関が原の戦いへの進退
○西軍に参加した佐賀藩と柳川藩が該当する。
○鍋島勝茂の場合、黒田長政・井伊直政らに依頼して徳川家康に謝罪して、
筑後柳川の立花宗茂を攻撃することにより本領安堵された。
○立花宗茂は西軍敗北の報せを聞いた後に柳川城へ立て籠もるが、黒田孝高・
加藤清正らの説得により開城して改易となった。その後、5千石の旗本とし
 て取り立てられ、陸奥棚倉で1万石の大名として再取り立てとなり、元和6
 (1620)年に旧領への再入封する。
 
b、新旧家臣団の対立がが該当する。
○福岡藩では、寛永9(1632)年に「黒田騒動」が発生した。
これは藩主黒田忠之が側近の倉八十太夫を大抜擢したことに対して、
 前代以来の家老栗山大膳が幕府へ藩主に謀反の疑いがあると訴えて
 江戸で対決が行われた。
○平戸藩では、まず寛永16(1639)年の「浮橋主水事件」が発生した、これは、
前代藩主に寵愛された元藩士浮橋主水が平戸藩にキリシタンの疑いがある
 と幕府へ目安を捧げた事件である。次は寛永18(1641)年の「新参古参騒動」
 で、重臣浅山三左衛門が古参勢力を非難したことに始まる。
○当時、藩主が藩政の主導権を掌握するには、自己の絶対的地位を確立する
必要があった。このために登用された藩主側近派は新興勢力を形成した。
 これに対して旧来の一門を含む有力家臣団が反発したことが原因であった。
 何れも藩主側の意向が採用されて勝訴という結果となっている。
 
c、跡目相続
○佐賀藩・福江藩・大村藩が該当する。
○佐賀藩では、龍造寺氏から鍋島氏への相続に伴い、寛永11(1634)年に
龍造寺高房の子伯庵が家名再興の訴訟をおこす「鍋島騒動」が発生した。
〇五島藩では、慶長17(1612)年に五島盛利が襲封したが、元和5(1619)年に
一族の犬浜主水が盛利の失政5ヵ条を幕府に訴える「大浜主水事件」が
 発生した。
○この二藩の場合、錯綜した相続の在り方が誘因となり、新旧家臣団の対立
も重なって有力一門が抵抗した。何れも藩主側の意見が受け入れられている。
○大村藩の場合、元和5(1619)年に大村純頼が28歳で急死した。一子松千代
(後の純僑)は1歳になったばかりであった。しかも、参勤時に報告の予定が
 急死のため、結果的として幕府に無届出の形となった。末期養子の禁に抵触
 するものであったが、家老大村彦右衛門の働きにより、最終的に相綾が承認
 されている。

 *問題が現れなかった大名家
  ・細川家寛永9(1632)年、豊前小倉15万石⇒肥後熊本54万石
  ・有馬家 元和6(1620)年、丹波福知山8万石→筑後久留米28万石
  
◎共通している点
 1、幕府が介入していること
 2、結果として藩が存続していること
◎幕藩関係から捉えると
 ◇幕府側
 幕府権力の浸透が薄かった九州地域の藩に対する内政干渉を行うことにより、
 統制を強める目的
 ◆藷藩側
 幕府に負い目を感じることになるが、自藩の存続が図られ、時には藩政の確立
 が推進された側面
 
.'.幕府に対しては恩義を感じ、従来より一層の奉公に励んだのである。
この一環が国家防衛としての長崎警備であり、「奉公の第一」と位置付け
  られた。
○福岡藩の場合
 「忠之に此度長崎の藩鎮を命せられし事、栄幸の至」と長崎御番下命を捉えた。
 長崎警備に対する認識は次の通りである。
  凡長崎は日本の西端に在て、中華及南蛮西戎の諸夷より渡り来る処なれば、
  異賊の不意に襲来せん時是を防がん為の守なり、是日本武将の官職におゐて
  は其任尤重しといふべし。 (中略) 長崎の藩鎮はいこくのふせぎまもりと
  して、其先鋒を奉る事きハめて兵家の重職、武将の名誉とすべし

 すなわち、長崎は日本の西端に位置し、中国や西洋などの国々が来航する場所
 であるから、外国の悪事をなす者が思いもよらない襲撃があった時、これを
 防御する役割である。これは日本の武将の官職では一番重要である。
 長崎に駐屯した軍隊は異国を押さえて日本を防衛する存在で、その先頭に立つ
 職務に就いたことは非常に兵家の重職であり、武将の名誉であると述べている。
 この考えに至る契機は藩祖黒田長政の旧事によるものとしている。つまり、
 長崎警備は国家を防衛する役目であり、自藩が武家の最高の地位という意識
 を持って勤役した。
○佐賀藩の場合
 天和元(1681)年4月9日、佐賀藩主鍋島光茂は長崎の戸町番所において人払いを
 命じて、鍋島主水・鍋島官左衛門・千葉太郎助らを召し寄せて、次のように
 語った。
  泰盛院(筆者注:鍋島勝茂)殿関ケ原御陣ノ時、西方被成候儀誤ト人皆申事
  ナレト、我等ハ全ク御取違ト不被思召、祖父御同意也、此段ハ御当代二
  遠慮至極成申事ナレト我等心底上様ノ於御前モ不揮申上覚悟也、子細ハ
  勝茂公、太閤ノ御重恩不浅事ナレハ、秀頼御下知ト之有時ハ分別二及パズ、
  勝負ニハ不構、西方ヲ被成候コソ御尤二侯、僑、西方敗軍ノ上ハ家ヲ御崩
  シ被成候ハデ不叶処ヲ御赦免被成候事、権現様御重恩難申尽、今日迄家ヲ
  連続申儀、松平御家ノ御厚恩ナリ、然長崎御番被仰付置候コソ幸二候、一
  番二命ヲ捨テ御恩穀シ奉ル図ナリト御意被成候

 鍋島膀茂が関ケ原の戦いの時、西軍に参加したことは間違っていたと人は皆言
 うけれども、自分はそうとは思っていない。祖父(勝茂)も同じ考えである。
 この件は現在述べるのを控えるのはこの上ないことであるけれども、自分の
 心の奥底を将軍の面前でも遠慮なく言う覚悟である。詳しい事情は、
 勝茂が豊臣秀吉の厚いめぐみが奥深かったので、秀頼の言い付けがあった時
 は物事の道理を考えることが必要で、勝負にはこだわらず西軍に参加した
 のは当然であった。そして、西軍が敗北したからには改易になるところだった
 けれども、許されたことは徳川家康の深い恩恵を言い尽すことができない。
 今まで鍋島家が続いたことは松平家の深い恵みである。したがって、長崎御番
 を命じられたことは幸運である。一番最初に命を捨てることによって徳川家に
 今までの恩を報いる考えであると語っている。
 ここでは幕府への恩義として関ケ原の戦いで西軍に参加しながら旧領を安堵
 されたことだけが述べられているが、幕府による鍋島氏の佐賀藩統治の承認、
 「鍋島騒動」に際して藩主側の勝利なども認識していた。つまり、佐賀藩は
 当初から藩存続の危機があり、藩政を形成していく上でも矛盾が出現したが、
 最終的に鍋島氏による支配の正当性が幕府から承認されたのである。
 したがって、幕府に対する報恩の念は増していった。この具体的な行動形態が
 長崎御番で、最大の奉公と位置付けたのである。
 また、長崎御番を担当するにあたっての覚悟の大意を次のように語ったている。
  長崎ハ異国ノ手当ニテ大事ノ御番也、然ハ異国ニ対シ、日本ノ恥ヲカカヌ
  所ガ肝要ノ目当ナリ、自然御制禁船着岸、一戦及フ時ハ我等一番ニ討死
  スル覚悟也、是巳本ノ恥ヲカカヌ根本ナリ

 長崎は異国への備えとして大事な御番である。だから、異国に対して日本の恥
 を見せないようにすることが重要である。もし、南蛮船が来航して戦闘に
 なった時は、自分たちが最初に討死する覚悟である。このことが日本の恥を
 かかないということの基本であるといっている。ここで指摘できるのは、
 福岡藩と同様に、長崎警備が国家の防衛であること、「我等一番二討死スル
 覚悟也」とあるように佐賀藩祁日本の代表(先鋒)としての役割を果す武家の
 最高の地位と自らを位置付けて勤役したのである。
 山本博文氏→長崎御番の重視を「佐賀藩の武威を保証し、家臣団統御の上でも
 重要な効果を発揮するものであった。言うなれば佐賀藩のアイデンティティ
 そのもの」とした。

まとめ
 幕藩制国家の日本防衛としての長崎防傭体制は、関ケ原の戦い以降の幕府に
 よる知行宛行に規定されており、これに対する諾藩の動向によって体制が
 形成・整備されたと捉えることができる。

【参考文献・史料】
・丼上幸治編『南欧史』(山川出版社、1986年10月)。金七紀男『ポルトガル史』
 (彩流杜、1996年4月)
・『黒田家譜』第二巻、文献出版、1982年5月
・『佐賀県近世史料』第1編第2巻、佐賀県立図書館、1994年6月
・細川護貞監彦『綿考輯録』第7巻、汲古書院、1991年9月
・藤野保・清水絋一編[犬村見聞集』高科書店、1994年2月
・山本博文『長崎聞役日記』(筑摩書房、1999年2月)。
・『福岡県史 近世史料編久留米藩初期(上)』(西日本文化協会、1990年3月)
・『久留米市史』第9巻、1993年10月)73頁。
・純心短期大学長碕地方史研究所編『長崎拾芥・華蛮要言』(1988年3月)
・『旧柳川藩志』上審(福岡県柳川・山門・三池教育会、1957年3月)
・【旧記雑録』後編6附録1(鹿児島県歴史資料センター黎明館、1986年1月)
・「黒田続家譜」巻之六(川添昭二他校訂【黒田家譜』第2巻、文献出版、1982年5月)
・「光茂公譜考補地取」二(了佐賀県近世史料』第1編第3巻、佐賀県立図書館、
  1995年3月)
・山本博文[鎖国と海禁の時代』(校倉書房 1995年6月)
【長崎楽会関連報告】
・山下博幸「長崎聞役 −江戸時代の情報収集者−」 (2000年7月)