2007年8月16目
長崎楽会例会配布資料

平戸藩キリシタン嫌疑事件

−浮橋主水事件について−

加藤 健

はじめに

 1638(寛永15)年に島原・天草の乱が終了し、対外交渉への統制が強まり、「鎖国」体制が形成される。 その中で1639(寛永16)年に元平戸藩士であった浮橋主水が、江戸幕府評定所に平戸藩(松浦氏)にキリシタンの嫌疑があると目安を捧げた事件が発生した。 当時の情況からこの出訴事件は藩自体の存続に関わる問題で、平戸藩にとって深刻な事態になった。 今回は、事件の内容、及び研究の概要を紹介したい。

1 事件の内容

a.事件のおこり
 浮橋主水は平戸領内針尾島出身で、元々は指(佐志)方市左衛門といい漁師の子であった。藩主松浦隆信(宗陽)[1591〜1637]の目にとまって1624(寛永元)年に仕官、近習となり、才知が認められて馬廻衆4人の中に列せられ、300石を賜った。彼はこの厚恩に報いるために、主君の死に際して「追腹」すると約束していた。しかし、1637(寛永15)年5月24目に隆信(宗陽)が死去した際に殉死しなかった。このため同席する藩士がいなくなり、平戸に居住できなくなって江戸に出奔したのである。
 1639(寛永16)年に次のような目安(訴状)を幕府評定所に提出をした。
 恐れながら申し上げます。
 私儀は平戸の出身で、松浦壱岐守隆信(宗陽)厚恩の者です。 ところが、壱岐守の母・松東院は大村利仙純患の娘です。 国元(平戸)の内所(側室)・春姫は大村因幡守の姪です。
大村純忠がキリスト教徒であることは、御公儀もご存じのことです。  このため、春姫は女心がはかなくて、御公儀の禁制を密かに祭っていることは宜しからぬことです。
私儀は厚恩を受けた者なので家の大事と思い、壱岐守に自分の考えを申し聞かせたところ、宜しからぬ祭事を止めました。  ところが、壱岐守が死去した以後、また志が悪くなりました。私を窮屈に思い、身近な者たちを用いて表向きの者たちに働きかけて、 私のことを不義の人外者などと言いふらしました。このため、人との交流が全く途絶えました。 結果として、平戸に居住することができなくなり、仕方なく江戸へ来ました。
 二、三の所から私の身上はもう済んだはずと言われました。 そこで、平戸屋敷に問い合わしたところ、いまだ不義の人外者と取り扱われたので、まだ解決していませんでした。 平戸の侍たちの心底はとてもけしからぬことです。
 主家の非常に大切なことで滅亡する事態を考えもせず、奥方の信仰に迷い、私儀を真実の様に讒言をし、行く先々まで迷惑を'受げる様になりました。
 この上は、私の申すことが是か非か、恐ながら、一封を捧げ奉ります。
   寛永16卯年 月 目箕田かわらけ町 富永八兵衛宿 訴人浮橋主水 上御評定所様
b、松東院(メンシア)について
 松東院[1574〜1656]は大村純忠の娘で洗礼名を「メンシア」という。1586(天正14)年に松浦久信(泰岳)に嫁ぎ、1591(天正19)年に隆信(宗陽)を生んだ。 キリスト教禁制が強くなると、義父・松浦鎮信(法印)がしばしば棄教を迫り、夫・久信も再三説得した。 パジェスの『日本切支丹宗門史』上巻(岩波書店)によると、生死を共に誓った夫と別れても、三人の子供との愛着に断腸の思いがしても、総てを神に捧げると強い決意を述べ、久信は信仰の黙認をせざるを得なかったという。
 1602(慶長7)年に夫・久信が急死し、1614(慶長19)年に義父・鎮信(法印)も死去し、棄教を強く説得する人がいなくなった。 禁教政策が激しくなるにも関わらず信仰を棄てないためか、1630(寛永7)年に息子である藩主・松浦隆信(宗陽)に連れられ江戸に移住させられる。 以後、1656(明暦2)に没するまで江戸下谷の広徳寺で軟禁状態の生活を送ることになる。
 隆信(宗陽)は寛永年間(1624〜44)初頭より江月宗玩(大徳寺156世、品川東海寺住職)に帰依していた。母に対する交誼と指導を依頼し、 江月は「松東院」の号を送り、仏法の奥義を伝授したという。 1635(寛永12)年の松東院の還暦にあたり、狩野派宗家8代狩野安信が描いた寿像(松浦史料博物館蔵)に江月の賛がある。 この前言の意は、「松東院に解脱の道を説き、彼女は仏教に帰依した。それを賞でるため一偈をうたい、参仏してこれをおくる」という。 ただし没するまで改宗しなかったという。
C、対決まで
 平戸藩が訴えられると、連日一門が集まって相談した。数目間の評定所における事情聴取で一門及び女中らの回答は、昔から平戸にキリスト教徒はいないというだけであった。 しかし、訴人・浮橋主水は平戸出身で現地の事情も詳しかったので、評定所で双方が対決することになった。
明日対決ニ究リ候前日ニ松平伊豆守様ヨリ目安之写密二来り
御老中松平伊豆守様江参上、御案内申上候処、御指図有之
 老中松平信綱が平戸藩に好意を示し、藩側の勝訴を意図・策動していたと思われる。
 その後、熊澤大膳亮、長村内蔵助、江川喜兵衛らが評定所での発言内容を協議した。その際、平戸における南蛮船の来航、一キリスト教の布教、禁教などに至る歴史が話し合われた。
d、対決の様子
  Ⅰ、主水の主張
 松浦隆信(道可)は大村純忠と昵懇で、平戸では白狐山下に教会堂を建て、多数のキリスト教信者がいた。 その後、禁教に伴って破壊されたが、その跡に隆信(道可)の菩提寺・印山寺を建立した。 これはキリスト教に対する二念を示すものである。また、奥方(隆信宗陽の側室・春姫)が大村風儀で祭事を行っており、その禁止について上申した。 熊澤・長村・江川の三人に向い、訴えは藩主に対する恨みではなく、平戸の侍たちの真意に対して考えるところがあっての行動である。
 Ⅱ、平戸側の回答
 松浦隆信(道可)の代に異国人が商売のため毎年平戸に来て珍物を持参した。隆信(道可)は特に鉄砲に興味を示し、その技術の伝授を願ったが拒否された。 そこで、隆信(道可)はキリスト教徒になって(布教を認めて)目的を達した。
そして、五峯王直という者が白狐山下に教会堂を建てた。これはキリスト教の信仰のためではなく、鉄砲や火薬を入手するための方便であった。 当時は禁教令がなかった。
 その後、公儀から禁教令が発布された。そこで、何度もキリスト教信者は容赦なく死罪にすると下々の領民に至るまで布告し、改宗させた。 以上のことを調べるため平戸に目付を派遺してほしい。
 隆信(宗陽)の死去の時、法事は江戸下谷の興(広)徳寺で行われた。当然、この寺はキリスト教ではない。 隆信(宗陽)はこの寺と同宗旨(臨済宗)である。
 Ⅲ、主水の回答
 此時伊豆守殿訴人二向テ答ハト曰、訴人何事哉覧ニツ三ツつぶやき赤面シテ指ウツムキ居タリ、
 此時伊豆守殿列座二向テいかヽ被思召候やト曰、御列座一同二始ヨリ訴人誤ト相見へ候トノ事、
 此時伊豆守殿訴人警園の者二それ々々ト曰、忽二主水ヲしらす二引おろし羽かいつけ二仕テ御勝手ノ方二沼連参候事
 Ⅳ、幕府の採決
 隆信(遺可)が行ったことは異国人から鉄砲や火薬を伝授してもらうためで、禁教令もない時期だったので仕方がない。
 平戸へ宗門改の役人を派遣して取り調べを願い出ていることは、心掛かりのことがなく誤りがない証拠である。
 隆信(宗陽)の法事は広徳寺で行われた。隆信(道可)の代にキリシタンを保護しなかったために、ポルトガル船が平戸から大村領に移った。
 浮橋主水は伊豆大島に流罪とする。
 採決後に松平信綱が熊澤大膳亮、長村内蔵助、江川喜兵衛の三人にかけた言葉。
 伊豆守殿我々三人に被仰候は、肥前守殿へ可申候、此間乱心者無斗方事申て御気の毒察入候、弥無別条段今日何も承屈候

2 事件の評価(どうとらえるか)

◎村井早苗「平戸藩『浮橋主水一件』と江月宗玩」(『幕藩制成立とキリシタン禁制』文献出版、1987年7月)
◇〜松浦氏は何らかの理由によってこの一件への幕府の処分を回避できたのである。その理由の一つは、松浦氏が持つ様々な姻戚関係であったかもしれないが、私は、とりわけ老中松平信綱が平戸藩に好意を示し、平戸藩側を勝訴に導いた点に留意したいと思う(P35)。
◇〜江月宗玩は、松浦氏との師檀関係によって、一件に際しては松浦氏に助力した。〜特に幕閣に深い関係を持つ江月が、キリシタン間題によって松浦氏を取り潰す方向ではなく、松浦氏温存のために何らかのはたらきかけをしたのである。〜江月が、幕藩間を取り次ぐ役割を果たしていたことは注目される。
寛永十年代という、この時期の一つの政治的動向と関わっているのではなかろうか。〜幕府は浮橋主水一件を契機として松浦氏を取り潰すのではなく、存続させる方向で、一件による事態を処理していったのではなかろうか、と考えるのである(P42)。

◎白石祥子「浮橋主水事件」(『紅毛文化と平戸I −江戸初期の国際都市『平戸』一』平戸市文化協会、1990年3月)
オランダ商館の破壊・長崎移転を実現させるため、平戸藩の反対を封じるための材料の一つに利用された可能性が強いと考えられる(P97)。
※告訴までおよんだ理由を裏付ける史料が少ないのが残念である(P97)。
※江月和尚や松平伊豆守信綱の手助けがあったことを忘れてはならない(P97)。

◎松浦潤「鎮信と幻の茶杓」(『長崎新聞』1994年10月)
◇〜浮橋主水事件が起こったのはこの(*筆者註:1641年の平戸オランダ商館の長崎移転)二年前である。そのため、事件は老中の松平信綱が仕組んだとの説もあるが、それはともかくとして、このとき松浦鎮信は、かねての移転反対の態度を翻し、オランダ商館の長崎移転を承知する旨の申し入れを、内々に幕府に対して行ったと伝えられている。
 つまり、オランダ商館の平和的な引き渡しと交換に、浮橋主水事件に対する寛大な措置を願い出たものらしい(10月20日19面)。
※幕府が松東院をじきじきに取り調べていたら、平戸藩は改易をまぬがれなかっただろう。だが、幕府は、平戸藩と親交のあった江戸東海寺住職の江月和尚を検使として平戸に派遣し、藩内の一般的な信仰状態を調査させたにとどめている。
〜このとき(*筆者註:幕府評定所での対決)、浮橋主水は松東院について追及を控えている(10月13貝16面)。

◎吉永昭「九州諸藩御家騒動の研究」(『愛知教育大学研究報告(杜会科学)』第38輯、1989年2月)◎吉永昭「九州諸藩御家騒動の研究」(『愛知教育大学研究報告(杜会科学)』第38輯、1989年2月)
主君へ正面から反逆したのにもかかわらず、その当時者が必ずしも極刑にはなっていないこと、などが注目される。〜重臣らがあえて主君を訴え、その自らの行為を正当化する論理が一体、何であったのか、幕閣内部の動きともからんで興味深い間題であるが(P60)、

◎久家幸一「オランダ商館閉鎖前後の平戸藩政について」(『平戸市史研究』、2000年9月)
◇この事件の背景にも、大村氏一族、新参の排斥の意図が感じられる(P78)。
※宗陽隆信の母松東院、側室春姫ともに大村氏の出自であり、隆信の周辺が大村氏の一族によって占められていた(P76)。
※平戸の治政は、〜江戸においては浅山三左衛門、長村内蔵助が補佐した。浅山、長村は、一門払いによって大村より追放された大村清助の嫡子と末子である(P75)。

◎吉井忠「指方善芳とその末裔」(『談林』第35号、佐世保史談会、1994年10月)
◇指方家は平安以来指方一円を支配してきた小土豪であり主水の曽祖父善芳、祖父庄左衛門は松浦家の被官として数々の合戦に従い忠勤に励んできた(P11O)。
◇(*筆者註:文禄慶長の役の従軍名簿では)三〇〇石浮橋主水助は御一族を除く家臣団一二三人中の第四番目に挙げられており将に五指に入る錚々たる御歴々ということになる。〜市左衛門改め浮橋主水とあるのは父の死後浮橋姓を継承したとも考えられる。又別の家系だとすれぱ、名家浮橋の絶えるのを借しんだ隆信が市左衛門にその名跡を継がせたも考えられる(Pl10)。
◇主水の訴え、評定所の裁定これは事実であろう。事件の原因経過は松浦家に都合のよいように作りかえられたのではあるまいか。これ程忘恩卑怯不忠の悪人に仕立てあげられた主水であるが、その父祖は江戸時代を通じ今以って善芳さまの墓、おやしろ様と称され住民によって例祭が行われている。指方村一円五〇〇石以上を領したであろう善芳の曽孫が高々三〇〇石の蔵米取りになった事を異状な出世と妬み、追腹を強要し、冤罪をもって抹殺した藩に対する住民の痛烈な皮肉であり、藩も黙認する外なかったのであろう(P110〜1)。

◎外山幹夫『松浦氏と平戸貿易』(国書刊行会、1987年5月)
◇主水の言動が卑怯であるといえばそれまでであるが、追腹を切ることを讃美する当時の異常な封建道徳観がこの事件を生みだしたもので、主水はその犠牲となったものとみることができよう(P195)。

◎岡村廣法「「松東院」をめぐる平戸」(『談林』第47号、佐世保史談会、2006年11月)
◇(*筆者註:1638{寛永15年])1O月18日越後長岡藩主牧野駿河守忠成公(譜代7万4千石)が、松東院の身を気づかって、平戸藩江戸詰の長村内蔵助宛に書翰を送っている。〜忠成公は松東院が熱心な切支丹であることは充分知っている筈で、島原の乱は終息したが切支丹信者の強固な団結力とその信仰の支えを味あわされた幕府の切支丹に対する圧迫がますます強まっていく中で、あからさまな表現こそしていないが、平戸藩がその渦に巻き込まれないように、万事に油断なく気を配れという強い意志が秘められている。
とくに、平戸藩老中筆頭の浅山三左衛門や、江戸詰の重臣長村内蔵助には名指しで、強い言葉で強調している(P12〜3)。
※松東院もからむ「平戸切支丹嫌疑事件」など切支丹に関係のあるものは藩の中に置かない方がよいと考えて、改築中(*筆者註:1828[文政11]年から)の江迎本陣の倉庫に搬入したのではないか(P20)。
○2006年7月2目の長崎県地方史研究会第1回研究発表会で、「近世初頭の平戸と松東院の生涯」と題して発表。のち、『長崎県地方史だより』第66号(2007年7月)に「松東院の生涯」として発表。

むすびにかえて

◎村井論文が一番オーソドヅクスに総合的にアプローチされている。
◎事件を記す史料が乏しい。『江川喜兵衛手記』のみ(『徳川実紀』や『オランダ商館目記』に記載なし)。
1、『平戸之光』第39号(愛宕山荘、1940年5月、のち葦書房が1996年10月復刻)に活字化、現在、底本の『手記』は散逸。
2、東京大学史料編纂所写本:『浮橋主水一件』(架蔵番号2019-4)、最終丁に「右浮橋主水一件 伯爵松浦厚氏所蔵大正四年十一月写之」と記す。底本は第二次世界大戦後の京都大学調査時には存在、現在は不明。
3、『御家世伝草稿』(松浦史料博物館蔵)
※今回は1・2を使用、
◎今後の検討課題
1、研究史を踏まえる。
 村井論文への言及・評価がなされていないのではないか。→各論文の引用・参考文献に記載がないという点で。相互に関連性・系統性を持たせる。
2、幕藩関係及び藩内家臣団構成の在り方を追究する。
 前者では村井説・白石説・松浦説・吉永説、後者では久家説や吉井説
3、当時の時代情況に位置付ける。
 藩主の主導による藩政確立期、それに伴う様々な課題の発生→幕府との関係、他藩との比較「御家騒動」では藩主側が勝利する傾向
4、新出史料の検討
 岡村論文による江迎本陣古文書、特に長岡藩主牧野駿河守忠成より平戸藩江戸詰長村内蔵助宛書翰、江月宗玩が平戸藩主松浦鎮信[天祥]に贈った茶掛の一層の解明、現時点で所蔵者・公開の有無が不明。前者は実見する必要がある(2006年長崎県地方史研究会第1回研究発表会レジュメは不鮮明)。

その他の参考文献
◎近藤義英「浮橋主水一件」(『平戸史談』第2号、1973年3月)
◎岡部狽「正宗寺の二大墓碑」(『平戸史談』第4号、1975年2月)
◎本囲忠臣「評定所の対決」(『大村史談』第35号、1989年11月)

付足―都内における松浦氏関連史跡―

◎平戸藩上屋敷跡(台東区浅草橋5-1-24) ※事前連絡が必要
◇東京都立忍岡高校内に庭園・蓬莱園跡が一部残存(池・銀杏・石碑など)
○藩下屋敷跡は墨岡区立本所中学校の辺り (墨囲区東駒形3-11) 標柱などなし
●支藩・平戸新田藩上屋敷跡 同愛記念病院の南部辺り (墨禺区横網2-1) 標柱などなし
◇本所七不思議の一つ「落ち葉なき椎木」で有名、大川(隅田川)水運の目印
●支藩・平戸新田藩下屋敷跡簡易裁判所の辺 (墨田区錦糸4-16) 標柱などなし
◇2006年に発掘調査、2007年度報告書完成予定
◎天祥寺(墨田区吾妻橋2-6-5)※事前連絡が必要
◇藩主松浦家の菩提寺、関東大震災によって昭和初期に平戸の雄香寺に多くの墓を移転するが、松浦鎮信(天祥)と松浦清(静山)の墓が現存する。他に生月鯨太左衛門の墓もある。
◎松浦の鐘(葛飾区東金町5-5地先)
◇長崎奉行・松浦河内守信正(分家・旗本)が知行地にあった菩提寺・龍蔵寺(現在、廃寺)に寄進した梵鐘、葛飾区の所有で災害時に警鐘として使用した。
◎宝持院(葛飾区青戸8-18-18)
◇松浦河内守信正の墓所。息子の長崎奉行・松浦信程が寄進した灯篭もある。
※長崎奉行・松浦河内守信正については、最近、鈴木康子氏が著書を刊行→『長崎奉行の研究』(思文閣出版、2007年3月)
「私は、松浦河内守の改革を調べるほどに、この名奉行が失脚させられ、現在に至ってもその業績が顧みられないことが残念でならなかった」(P383〜4)
◎光林寺(港区南麻.布4-11-25)
◇支藩・平戸新田藩主松浦家歴代の菩提寺。走だし、明治以降は天祥寺に埋葬、祭祀を行う。