魂の回帰
有家銅版画「セビリアの聖母」の旅
渡辺千尋


1998年12月23日、バチカン市国はパウロ6世ホール。南高有家町の藤原米幸町長と
私は、先導する片岡瑠美子長崎純心大学教授に従ってローマ法王ヨハネ・パウロ2世の壇上
に上り、持参した復刻銅版画を手渡した。
法王は片岡先生の説明を聞き終えると、右手を版画の上にのせ、「ありがとう」とはっきりした
日本語で謝意を表された。一瞬私はその言葉を頭の中で日本語に訳したものと錯覚したが、
すぐに法王自身が言ったのだと気付くと、驚きと共に感動が込み上げてきた。
その二日前、私達一行はスペインにいて、セビリア大聖堂にも版画を献上していた。
版画にとって、バチカンが父とすればそこは生みの母なのである。
版画が「セビリアの聖母」と呼ばれる由来は、言うまでもなくその聖堂内に描かれた
「アンティグア(古代)の聖母」という有名な壁画を模しているからだ。かのコロンブスも
その壁画の前に跪き祈って航海に出たという。因に、彼の墓はこの聖堂内に今も安置されている。
スペイン最大規模を誇るゴシック様式の大聖堂内では、予想をはるかに超えた鄭重な歓迎式典が
用意され私達を驚かせた。案内された壁画聖壇前には既に正装した司祭の方々が並び、私達の
到着を温かく迎えて下さり、世界でも屈指の大パイプオルガン演奏による両国歌が聖堂内を荘厳に
響き渡った時など、心の震えが止まらなかった程であった。
壁画は、5、6百年前に描かれたとは信じられぬ新鮮な光を今も放っていた。描いた作者も
制作年代も不明で伝説の中にあるのだが、比類ないその気高い美しさこそ伝説を生み出したの
だろう。私は写真を撮ることも忘れ、長いこと惚けたように見詰めていた。
3年前、有家町から4百年前に制作されたキリシタン銅版画の復刻を依頼された私は、長い間
悩みぬいた末、その一歩を大阪・堺から長崎まで歩くことから始めた。版画制作年に起きた
「二十六聖人殉教」との関連にこだわった結果の二十六聖人体験であったが、それだけでは説明
できぬ衝動であった。
復刻作業中、この銅版画に秘められた謎に直面した。それはキリストが抱く白い鳩が消されて
いることにあった。その謎を二十六聖人殉教と結び付け私なりに読み解いたのだが、復刻を終えた
後でもその問題は気掛かりで一向に解消しなかった。
版画の中の鳩は、将来人類を救う幼きキリストに下った神の精霊、広くは平和、勝利の象徴である。
それを消す行為は、時代への絶望を込めた証言にしても、聖画への冒涜であり、自作への破棄宣言
であることは否めない。だが、それが単なる自暴自棄でないことは、鳩だけを巧妙に消していること
がなによりも証明している。確かに伝えるべく細工された刻印なのだ。それ程に、同宿者二名を
含む二十六人の磔刑(たっけい)は彼にとって身近で衝撃的な事件だったのだろう。
しかし、その後の彼はどう生きたのだろう。仲間と同じ殉教の道を辿ったのだろうか。それとも
信仰を棄て、世への呪いを持ったまま闇の中を彷徨(さまよ)ったのか。
この銅版画がローマ法王の元へ献上されるのは今回で二度目である。最初は、マニラで発見した
プチジャン司教によって。その時は日本にとって貴重なものとして長崎に返された。それにしても
二度もローマに行くとは何と奇異な運命を持った作品なのだろう。私はそこにそれを制作した版画家
の深い執念を感じている。
有家町が企画した今回のスペイン・イタリア旅行は、版画献上の目的と、同時に天正少年遣欧使節
の史跡を訪ねるという欲張ったものだった。そのため、中学生四人も同行した。その話を聞いた時、
思わず顔が緩んだのは私の中で密かな思惑が生じたからだ。
セミナリオで学んでいた同宿者達は、1590年に無事帰国した先輩である四人の使節にスペインや
ローマのことを何度も聞いた筈で、若き版画家も欧州世界に夢馳せながら銅板に向かっていたことで
あろう。「ああ、夢でもいいから一度見て観たいなあ」、そんな呟きを漏らしながら。
だが突然の暗黒世界、望みも夢も完全に断たれる。
私は史跡を回りながら、彼が果たせなかった夢の運び人の役割を本気で考えるように務めた。セビリア
の壁画を見詰めた半分は彼だった。法王に版画を渡し終え、壇上を下りながら自分の中に生じた空洞、
虚脱感は、私の仕事が終わったという安堵感からではなく、彷徨える彼という魂が四百年を経てやっと
回帰したからだ、と信じた。
堺から始まった一歩は終着長崎を超え、ローマにまで行き着いた。それを今も奇跡的道程と思っているが、
私は彼の夢想の中にいたのだろうか。


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