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バリフライトツァー2005年7月

Issue 2006.02.17

2005.07 Prologue   7月12日  13日  14日  15日  16日  17日  18日  19日  20日  21日  22日 23日 その後 

ぷろろーぐ プロローグ a prologue

2004年3月4日に妻・正子は私の手をしっかりと握って遠い国へと旅立った・・・。
正子が癌と言う病におかされてから、私の生活は一変した。私の生き甲斐だった筈のパラグライダーは、目の前から消えてしまった。

http://www5.big.or.jp/~ookubo/masako_1.htm
正子の在りし日の姿
納骨の日 2003年3月5日に正子と一緒にタンデムをした岩屋でのフライトを最後にパラグライダーの世界から離れていた。正子の入退院の生活に私の生活態様もシフトした。仕事を終えたら、すぐに病院の正子に会いに行き、笑いながら話す日々が続いた。病院での正子は、とても明るかった。死に向かっているなんてことを微塵も感じさせないように同室の患者たちと笑顔で談笑していた。私も、病室に行くと、皆を笑わせていた。

しかし、主治医からは、なんとも残酷な宣告を受けていたのだ。私は、息子達にも、親戚にも打ち明けず、ひとり胸の中にしまっておいた。そして、正子と再び、大空を飛べる日を夢見ていたのだった。

残念ながら、正子は、2004年3月3日深夜から症状が悪化して、明朝、苦しみながら息を引き取った。

野辺の送りを滞りなく済ませてから、私は、心痛の日々を送っていた。幼い孫たちの姿が私を慰めてくれた。仕事を終えて、誰もいない明かりが消えている家に帰ると正子の遺影に語りかける毎日が続いた。

「もう二度と、パラグライダー出来ないのだろうなあ・・・」悲しくなった。
心の支えの孫・路央
この笑顔にどんなに救われたことか・・・ 心の支えの孫・樂



次男マナが脳内出血で緊急入院 追い討ちをかけるように、2004年10月17日に次男マナこと学が脳内出血で倒れた。危篤の状態だった。目の前が真っ暗になった。絶望だった。

開頭手術は、16時半から深夜24時30分までかかった。私は、ただ独りで家族待合室で不安の時間を過ごした。幸い、医師と看護師の献身的な治療と看護で奇跡的に助かった。毎日が針のムシロの上のような生活だった。私の生きる意味は、息子達と孫たちの為にあると認識した。
開頭手術が終わって・・・


パラグライダーから離れて丸二年の月日が過ぎた。2005年4月6日、パソコンの仲間である友人たちから六義園への花見に誘われた。気分転換に良いと思い参加した。私よりずっと年配の方たちだったが、楽しい時間だった。六義園の高台に上がった時、平地から吹き上げて来たサーマルを身体いっぱいに感じた。
http://www5.big.or.jp/~ookubo/dengonban378.htm

パソコンのヘミングメイトの皆様と花見 六義園の高台で身体一杯にサーマルを受けました この日の参加者全員・・・左からGXB、wako姉さん、めんめさん、澤田さん


「ああ、飛びたい!」心底思った。

その日以来、頭の中からフライトのことが離れなかった。二年のブランクは、不安だった。でも、飛びたい。2005年4月最終日の30日、ついに高峰に向かった。同じスカイエンジェルの豊田さんがいた。たった二人だが、私は、嬉しかった。約2年2ケ月ぶりにフライトした。サーマルの中を55分間もフライト出来た。

http://www5.big.or.jp/~ookubo/dengonban382.htm

2年2ケ月ぶりのフライト 高峰の上空を飛ぶ スカイエンジェルの豊田さん 高峰テイクオフでGXB


5月になって、私のサイトをリンクさせて欲しいと言う依頼のメールが来た。私のサイトは、「リンクフリー」としているので、とくに断ることもない。しかし丁寧な申し入れに私もそのサイトを覗いた。

http://www13.ocn.ne.jp/~m-hiroba/sky-2.html

そこには、私が知っているサイトが2つあった。ひとつは、台湾のパラ事情を紹介している大方さんのサイトだ。もうひとつは、「バリを飛ぶ バリ島パラグライダー事情」である。久しぶりに両方のサイトにアクセスした。

バリは、正子が行きたがっていたところだ。無性にバリに行きたくなった。サイトを運営しているバリ在住の「ぷーたさん」にメールをしたのは、6月8日のことだった。すぐに返信メールが来て、バリの事情を教えてくれた。

このようにして私の「バリ・リハビリフライトの旅」が始まったのだ。

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