1.リアルタイム
ネットワーク恋愛ゲームの展望と現状について書いたのはもう2年近く前になるが、状況は依然として変わっていない。すなわち、「PSO」のように、非恋愛ゲームではブレイクしているゲームがある一方で、ネットワークを通して人と一緒に遊ぶという恋愛ゲームの形はまるで生まれてきていない。(男性向けの場合)男性同士で恋愛についてのゲームを一緒に遊ぶということの寒さは予想以上に厳しいものだったということだろうか。
しかし今回はネットワーク恋愛ゲームがテーマではない。人と一緒に遊ぶと言う形で立ち現れるネットワークゲームは、人と遊ぶ時間を合わせる必要があるところから始まって、必然的にリアルタイムな性質を持っている。私は以前、希望的な観測として、ネットワークゲーム恋愛ゲームの前段階として、完全なリアルタイム恋愛ゲームの登場を予見していたのだが、今のところこれすらもなさそうである。
完全なリアルタイム恋愛ゲームとは、選択肢に限らず、初めから終わりまでずっとリアルタイムで進行していくというものである。選択肢が表示されるところで時間制限が設けられるゲームも珍しくないし、いわゆる「ドラマティックモード」「オートモード」のような自動進行モードが提供されているものも珍しくないが、これが組み合わさってシステム上強制されたものと考えれば分かりやすいだろうか。会話を中心に組み立てざるを得ないのでシナリオにある程度の制約が生まれるのは否定できないが。
そのプレイはかなり緊張感を伴うものになるだろう。慣れ親しんだアドベンチャー/ノベルタイプのゲームと比べると相当ストレスが溜まりそうだ。
2.ストレス
そこでストレスの話になる。最近気になるのは、恋愛ゲーム(に限らないかもしれない)が徹底的にユーザのストレスを下げる方向で展開していることである。もちろん、プレイアビリティの向上という方向性を否定する気は全くない。私が危惧するのは、そうしたプレイアビリティとシナリオ上あるいはシステム上の「攻略」の難易度が一緒くたに議論されてしまうことである。
例えばテキストの読み返し機能や既読スキップはプレイアビリティに含められると言っていいだろう。私たちは読み返しに相当する行動として聞き損なった言葉を聞き返すということをしている(その意味ではここでは聞き返したらアウトだ!というクリティカルなシチュエーションもあるだろうからそういう場面では読み返しができなかったりしてくれると楽しいかもしれない(※1))。
しかし、場所移動時のキャラ表示や、選択肢のヒント表示になるとどうだろうか?全くランダムな(予測不可能な)場所移動は総当りしかないので仕方ないというかもしれないが、人によって好む場所があるだろうし、それ以前にアポイントメントを取れよという話であり、そもそも場所移動によってイベントの発生を制御する方に無理があるとも言える。一方選択肢のヒント表示はどう考えても余計なお節介だ。受け手が考えることをやめさせるというのもあるが、それ以前に選択しがいのある選択肢の作成を放棄してヒント表示で言い訳していると言うべきであり、作り手の怠慢でしかない。こういった余計な親切をユーザが便利だ、ストレスなく遊べるという言い方で語ってしまうことには危機感を感じざるを得ない。その意味では明らかに「正誤」があるような選択肢も変だ。
3.他者
だが、私がもっとも気持ち悪さを感じているのはこういった「システム」(※2))上の便利さではない。すなわち、それはシナリオ上の「便利さ」である。
サイトの性質上(それこそ便利な言葉だな)、時々恋愛相談のメールが来ることがあるのだが、以前こういうものがあった。無断で紹介させて頂いてしまうと、「恋愛ストレスがたまるとそれから逃げたくなり、一人のほうがらくだと思ってしまう。なぜストレスを感じるのか?(中略)このままじゃ恋愛継続不可能!」 まったくもって私にどうしろというのだが、自分とは異質の他者と付き合っていく中でストレスを感じるのは当然であり、それを超える歓びを感じられる人が初めて関係性を求められるのだと言うしかない。
家族、学校、会社、そして地域社会と言った共同体が崩壊もしくは変容しつつある中で、私たちは共通のバックボーン、共通認識というものを急速に失いつつある。言うまでもなく、私がこうして書いている言葉の1つ1つも読み手が認識する言葉の意味とは全然違うだろう。そうした共通認識が失われた中で、他者と関係性を構築していくためには、他者の異質性をしっかりと認識し、他者を完全に理解することなどできはしないという事実を受け止めた上で、諦めることなく挫けることなくコミュニケーションを継続しひとつひとつ積み重ねていくことしかないのだと思う。もちろん、とてもストレスのたまる営みである。
ところが、例えば今年(2001年)前期に比較的高く評価された「シスプリ」にしろ「みずいろ」にしろ、現在の恋愛ゲームが向いている方向は、どうも逆のように見えて仕方がない。そうした他者性が徹底的に排除され、ユーザの気持ちよさばかりが追求されているように感じられるのである。この文脈でしばしば挙げられる例が「ONE」の瑞佳シナリオ後半だろう。こういったシナリオが「意地悪な選択肢」「理不尽な難易度」という言葉で安易に語られてしまうことはとても怖いことだと思う。現実は、あるいは他者は当然のように理不尽でどうにもならないものだからだ。
恋愛ゲームは直近の気持ちよさを追求するために、とても多くの共通基盤や暗黙の了解事項が作られている。こういった「属性」のヒロインだからこう振舞う。「お約束」として作り手と受け手両方に承認されている展開たち。ユーザ受けするからと作品に盛り込み、ユーザはそれを期待通りだと評価する。そこにはユーザがストレスを感じるような登場人物の異質性もなければ作家の異質性も存在しない。それはキツイ言い方をすればただの馴れ合いであり、他者がいない世界である。
私が恋愛ゲームで標準的な「ハッピーエンド」というものを嫌うのはこれに拠るところが大きい。いや、最初はユーザ側から生まれた概念なのかもしれないが、今や作り手が何も考えずにフォーマットに従っているということはないだろうか?私に言わせてみれば「ハッピー」か「バッド」かはこちらが判断することであって、全て皆単なる「エンド」であるべきだと思うのである。定義としての恋愛ゲームは今や「恋愛(あるいはそれに相当する関係性)をメインテーマとして扱っているゲーム」ということでしかない。今更誰と誰がくっついたからハッピーなのだとか、くっつかなかったからバッドなのだという言う単純なものでないはずなのは言うまでもない。
他者性が欠落した恋愛ゲーム。現実はとてもストレスフルだから、ゲームの中ぐらい気持ちよくていいじゃないか。そうなのだろうか?異質性に欠け、自身のありようを揺さ振られることのない作品はひとつ間違えれば退屈さと隣り合わせだ。プレイしてもしなくても何も変わりはしないただの暇つぶし的消費行動である。時代劇のような、安心して観ていられる「感動」や「笑い」、「萌え」を享受して余生を過ごしていればいいのだという、そんな「精神年齢の高い」ユーザや作り手に、私たちはなってしまってはいないだろうか。
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※1、読み返しやセーブでフラグがオンオフしたり。私はゲームをプレイしてる自分を冷めた目で見ている自分を冷めた見ている自分を…という人間なのでメタ的な要素が大好きだからだが、確実に「攻略が…」という話になるだろう。(→戻る)
※2、「」付きなのは本来シナリオと分けられないところであるため。(→戻る)
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