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裏恋愛ゲーム学


第7講 望まない人々─(2)本当の「能力」

──恋愛能力指数テストを振り返って2

99/08/25初筆、99/12/28開講

1.何が「障害」なのか

 このところ(当時)の恋G学では、「恋愛健常者」「恋愛障害者」というレッテルを多用している。便利であるが故に安易に使ってしまうのだが、これらには個々の事情を無視して汎化してしまうため大きな危険性がある。

 そもそも、「障害」というのは何をもって言うのだろうか。LQは恋愛能力を測る指数ということになっているが、LQはごく一部の条件の下で指数を導出する「目隠し分析」に過ぎず、本来は各人の家庭環境、友人関係、恋愛および人生経験などその人を構成する全ての要素を考慮に入れなければ正確な判断はできない。現実にはLQが高くても恋愛ができないという人だってたくさんいるだろう(逆は分からないが)。実際問題として、恋愛能力だけから言ってしまえば、どうやっても「できない人」というのは1割、まぁ、現代の「恋愛」への20〜30代の男性(恋愛ゲームユーザのメイン層ということで)の適応状況を見る限り多くても7割(多過ぎか?)というところだろう。残りの人は問題を能力に帰するのは適切ではない。

 では何が「障害」になっているのだろうか。最近よく見かけるビジネス書(それにしてももしかしたら旧き幻想の生き残りなのかもしれないが)を開けば、大抵こんなことが載っている。「人間には2種類の人がいる。それは『できる人』と『できない人』ではない。『望む人』と『望まない人』である。」と。恋愛だって同じ事なのではないか。つまり、彼らは恋愛を望んでいなかったのだ。

 望んでないというのは言い過ぎと思われるだろうか。少なくとも恋愛能力指数テストを試された方や恋愛ゲームに触れている方は恋愛に興味自体はあるはずなのだから。しかし、次のように考えてみるとどうだろう。現実の恋愛は相手が存在する以上時間やらお金やらやはり何かしらの代償を支払わなければならない。もちろんそれ以上の幸福感が得られるからこそ恋愛を求めるのだが、現代的な個人主義が行き着いた世界では、それよりも充足した時間を過ごせる興味対象を持つことは別に不思議なことではない。もちろんその興味対象が恋愛ゲームという虚構世界である可能性もあるだろう。そうなるとどういう意味での「障害」なのか分からなくなってくる。

 すでに「ONE」でも示唆されているように(※1)、他者との関係性を構築していくことが(そして恐らくはそれのみが)この過酷で救いのない現実世界において不確かな自身をリアル化していく(現実世界に自身を「繋ぎ止める」)行為であるというのはなるほど否定し難い説得力を持つが、虚構を「選択」する人たちに対して、それが仮に間違いなのだとしても、それを説得できるような術(すべ)を私たちは持ち合わせていないのではないだろうか。確かに現実世界はいつも厳然として存在するし、そこで社会生活を営むものにとって、「社会的責任」を果たし、折り合いをつけていかなければいけないのは間違いない。だが、現実が虚構よりも密度ある時間を提供してくれるという保証は、あらゆる上昇幻想を喪失した現代ではもはやどこにもないのだ。これは恐らく恋愛だけに止まるものではない。来るべき21世紀の関係性の問題を考えていく上で、望まない人々というのは決して小さくない影を落としていくのではないか。(次講に続く)








































※1、って「ONE」に囚われてるのは私自身か…。