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記憶を巡って

 本論は「GD# vol.2」(GameDeep様/「コミックマーケット63」にて頒布)に初出の原稿です。then-d氏ご本人の許可を得て掲載しています。(2003/05/10,秋風)

then-d

 昨今、同種の物語を下敷きにしつつ、新たな物語を紡ぎ出そうとする動きが、ゲーム、アニメ、映画といった様々なジャンルで見られる。例えば、映画「A.I.」において、「ピノキオ」の主題に同一化しつつ行動するデイヴィットの姿は記憶に新しいところだろう。アニメーションにおいては、現在「プリンセスチュチュ」において、様々な童話を下敷きにして、そこから紡がれてゆく物語という形式を意識的に扱うという意欲的な作品が進行中である。また、ゲームにおいては、システム上の特性を活用し、単線的ではなく、円環的な構造を用いるものが目立つ。「AIR」においては、"DREAM"という章で一度語られた物語を、後段の"AIR"章でなぞりつつ、全く離れた地点に着地させるという構造には、このゲームをプレイした多くの人々が衝撃を持って受け止めている。このほか、「infinity」「ever17」の一連のシリーズにおいても円環的構造が採用されている。一例を挙げると、「infinity」では、1周目の悲劇的結末を克服するために同じ刻をやり直すという形でゲームが進行する。このような円環的形式を持つものとして、最も特徴的な「Prismaticallization」においては、ある日の午前9時にゲームが開始され、1日が経過するとまた同じゲームの開始時点に強制的に時間が戻る。infinityのように、取り立てて大仰なストーリーが存在するわけではない。また、プレイヤキャラクタである射場荘司はその刻の経過を忘却しているが、プレイヤ自体はその円環を意識させられ、前の1日の記憶を引き継いで、新しいが同じ1日を繰り返すことになる。

 上記のような形式的な概観によると、これらの作品から、我々は記憶のカタログの中から検索し、脳内に蓄積された情報と新たに入ってきた情報とを比較対照し、関連性があるとの判断で両者を結びつける、ということが行われていると、素朴に感じられるだろう。よく比喩的に用いられる頭の中に引き出しがある、という例を想起してもらえば容易である。

 それでは、以下のような例はどうか。映画「耳をすませば」と同時上映されたジブリ実験劇場「On Your Mark」には、地下都市内での宗教団体ビルへの突撃から信者と警察との銃撃戦の後、集団自決か集団虐殺の行われた部屋に警官が踏み込んでいく場面がある。その部屋の最奥部には、鎖で繋がれた翼人らしき少女がうつ伏せに横たわっている。これを見た瞬間、オープンカーに乗った2人組の警官が、少女を空に飛ばそうとする場面が描かれる。その直後、また同じ警官が翼人の少女を発見する場面が描かれる。この2回の場面では、いずれも歩いていく警官の後ろ姿が、歩いて入り込むというのではなく、フェードインする感じとなり、やや夢か現か曖昧な様子で描かれる。2度目の場面以降は時間の流れが断ち切られることなく、少女の救出→医療班への引き渡し→引き揚げと繋がるが、少女の発見と空へ飛ばす場面の存在に違和感を抱きつつ、先へ進むことになるだろう。次に時間的流れが大きく断ち切られるのは、少女を研究施設から救出するも、警察ヘリに追われることとなった2人の警官が乗る作業車がヘリと接触し、道路が破壊され真っ逆様に落下していった直後からである。ここでまた時間は宗教団体ビルでの集団死の部屋へ戻り、少女を発見することになる。さらに、その直後、少女が大空へ登っていく場面が挿入され、その後途中の場面は飛ばされ、研究施設から脱出するシーンから脱出のやり直しが行われる。前のシーン同様、警察のヘリと作業車は衝突するのだが、なぜか作業車からジェット噴射のようなものが発生し、奇跡的に脱出に成功。オープンカーで人の住めなくなった地上へ向かい、少女を空へ飛ばし、2人の警官がそれを見送るところで終了する。このとき注意すべき点は、最後に少女が空へ飛んでいく場面の中には、先刻挿入された2回のカットと同様のシチュエーションは存在しないことである。つまり、全てのカットについて整合性を持った1つの時間軸に並べようとしても無駄であるということが判明する。

 この問題の整理の仕方としては、2つの方法がある。1つ目は、ある1つの時間軸に沿った流れを正史として捉え、残りを偽史、もしくは登場人物の想念による産物及び達成されなかった願望と捉える方法である。この考え方では、前半部で2回少女が空へ飛ぶカットは、2人警官達が少女を発見したときに「かくありたい」と願った願望を表し、史実としては作業車が落下したところで断ち切られ、残りは「かくありたかった」という想念の産物として整理される。しかし、これでは時間的整合性を重視するあまり、全体の分量の中における史実と想念の割合・バランスが崩れ、想念の部分であるやり直し以降の場面が、想念とするにしては詳細に描かれすぎるという問題が出てくる。2つ目には、これら全ての場面が時間軸を異にする史実であり、過去にはチャゲが投げ出すように少女を空に放し、次の時間軸においては救出に失敗して奈落の底に落ちていき、その次に救出したときには、少女の手にキスをしてそっと空へ離すという理解をする。このように考えれば、少女を空へ帰すときの細部の異同にも違和感がない。つまり大きな歴史の流れで円環的に時間が流れ、同じような状況に対峙したとき、この2人の警官がどのような行動を起こすかという点は共通しつつ、その回によって結果の相違が現れる、という構造となる。これは、「On Your Mark」の歌詞にあるように、「走り出せば 流行の風邪にやられた」という挫折がいつもあるものの、「僕らがそれでも止めないのは〜」と、on your markの語彙どおり何度でもスタートラインについてやり直す、という表現と重なってくる。

 また、この作品には、冒頭に現れる核関連施設を封じ込めたらしい黒々とした大きな建造物、無人の街並みなどが表され、人々は地下に居住していること、この映画公開当時にはオウム真理教における事件が取りざたされていた時期であることなどから、画面内の世界の閉塞感が、単なる表現としてではなく、我々観客側の実感にダイレクトに伝わるものであった。そこから、我々観客側の反応である「せめて少女を空へ飛ばし(逃がし)たい」という願望は、場面構成と、背景的情報から惹起されているものと言えよう。

 このような一連の動きを見ると、単に情報を参照しにいく、という形式の記憶に対して疑問が起こる。参照される情報は固定的なものと捉えられがちだが、刺激のかたちによって記憶も様々に変化して現れる。記憶とは、現在に適合するよう、常に組み替えられ、再構築され、新たに生み出されている動的な存在と捉えられる。このような記憶の存在を表現したものとして最も有名なものは、マルセル・プルースト「失われた時を求めて」において、プチット・マドレーヌを浸した紅茶という予想だにしないものから、過去の記憶が素晴らしい快感と共に突然現れたという件であろう。我々自身のなかにも、思い出そうとしてままならず、全く別のことをしているときに、どうしても思い出せなかったことが不意に現れ出たり、全く関連のないと思われた事象Aと事象Bの関連性に突然気付いたりというユリイカがあちこちに隠れている。こういった実感からも、記憶が単に情報の貯蔵と検索というシステムのみで成り立っているわけではないことが容易に想像できるだろう。

 冒頭に挙げたゲーム「Prismaticallization」においては、先に1日が経過するとまた同じ日の午前9:00に立ち返るという構造に言及したが、このゲームは単線的に周回を繰り返すことでEndingへ向かうという構成ではなく、5つまでの「状態」をオブジェに記録し、繰り返す1日の中で同じ場面に出会ったとき、その記録が解放され、それにより道筋が変化していくシステムを有している。ここでは、記録が記憶であるという解釈よりももっと重要なのは、解放についてである。前段で言及したことと同様、特定の場面によって解放される記録=記憶という制約が、記憶は特定の刺激によってのみ浮かび上がってくるということを表している。特定の刺激の存在により、同一周回からのズレが発生し、別の可能的世界であったものが事実として立ち現れるといってよいだろう。

 また、「Prismaticallization」はゲームという特性を活かし、システムとの深い関係を示したが、このような複線的構造を伴っていないとは言え、円環的時間を意識したつくりのものは様々に存在する。中でも最も意識的に制作されたものとして注目に値するのが、テレビアニメーション「無限のリヴァイアス」第1話冒頭部と第26話冒頭部であろう。この間のストーリーについて詳細は省略するが、長期間の漂流の中、孤立・恐怖・集団・権力・暴力・対立といった、およそ考えられ得る現代社会の暗部を端的に提示されていく中で、特異な能力はなく、不器用で反応は鈍いものの、状況を引き受け、倫理的観点からなんとか共生を見出そうとする相葉昴治を中心に描かれる。事件解決後の再出発である第26話冒頭を見た瞬間、天気・カーテン・弟の部屋との間のラジカセの有無・、母とのやりとり・特急の名称・昴治とあおいの服の相違など全てが対比的に描かれた第1話の記憶が呼び起こされると共に、その間の過酷な漂流生活の経験と変化の記憶が奔流のように飛び出してくる。このとき、我々は、それまでこの作品に通奏低音のように流れる鬱屈した印象と対照的な、ユリイカと共に得る快感のようなものを感じ取ることができる。

 このような記憶の形成は、事柄に立脚するのではなく、常に現在の自己と現在の状況との関係においてその都度立ち現れるものだと言える。言い換えれば、記憶とは自己との関係性の中において特定の状況を契機として成立するものである。だがしかし、我々の記憶は常々瞬間瞬間のアドリブというわけではない。自己補強的作業が加えられることが往々にしてある。そのようにして強化した自己の記憶が、一つの流れを形成するとき、それが自分自身の物語や歴史となっていく。過去の記憶が美しいのはその強化過程により美化されてきたためであろう。

 このような自己補強的流れは、記憶が意図的に形成されるということに拡張され、これを表現する映画「MEMENTO」に特徴的に表されている。時間が遡及するように創られたこの映画の中、冒頭のシーンでは主人公レナードはジョン・Gという男を見つけ、復讐を遂げるという場面からスタートする。観客である我々は、状況がよく呑み込めないものの、レナードの達成感から、我々もなにがしかの達成感のようなものを受け取ってしまう。この時点では描写がないため、過去の記憶がないのは我々もレナードも同じであるが故に観客とレナードの位置づけは重ね合わせられ、失われた記憶を求める、というこの映画の目的へと冒頭から巻き込まれていく。この表現方法には、記憶の不在を逆手に取ることで、記憶への欲望を喚起するという点においてまで、主人公と観客を同一化する働きが存在することを示している。場面毎に遡行していく時間を経験する中、記憶が失われるレナードと記憶を保持することのできる我々観客との間では、少しずつ溝が深まっていき、最終的には、自らが意図的に記録を改編することで、意図的に敷いた物語をレナード自身が生きることになるという種明かしがなされて終わる。このような固定化がジョン・Gという名の者を次々と殺し続けなければならなくなる殺人鬼レナードを生んだことを鑑みるに、意図や判断というものも含めて記憶であり、記憶の固定化という点については意図や判断の歪曲をも含め、特に注意する必要があるいう印象が残る。

 この固定化について、未来にまで拡張したものが、映画「マイノリティ・リポート」である。2054年のアメリカにおいては、プリコグという特殊能力者によって幻視された映像情報により、未来の殺人事件を未然に防止するシステムが存在する。また、個人認証は全て網膜においてなされる。このような設定と、様々な場面にちりばめられた眼及び眼球への執着のある映像から、視覚に大きく依存している社会というものが浮かび上がってくる。プリコグの見た映像情報によって捜査を行う場面では、目玉を想起させられる木の玉に被害者・加害者名が記され、映像を切ったり止めたり、拡大したりと、まるで映像を編集するかのように犯罪場所を特定する捜査が執り行われる。このように未来を割り出し、一つのストーリーを作り上げ、それを記憶=記録として固定化し、殺人を行うであろう者を逮捕するというシステムは、「Prismaticallization」で既に見てきたズレを生み出すシステムの働く余地はなくなってしまう。これにより、国家権力等強大な権力機構力の判断が世界の記憶として定着されることとなる。断片に過ぎない事件の映像情報を特権化することで、ある意味「世界の記憶」を掌中にするという恐ろしい管理社会への警鐘を感じ取ることができる。社会システム上の表現に不備がある点など、大きな穴はあるものの、視覚情報をあまりにも偏重しすぎる点においても、警鐘を鳴らす点で、この作品には意義があるだろう。この点については、現在においても、テレビ・映画・写真などを含めた画像情報が大量に生産され、それを摂取。再構成することで同一化された情報による同一化された世界の記憶を所有させられる可能性のある現代人への警鐘とも受け取れるだろう。

 このような「世界の記憶」を求める意識が働いた作品としてゲーム「クロノ・クロス」のエンディングが存在する。しかし、この作品においても「星の記憶」とプレイヤ自身を同一化する形での統合は行われず、全ての生命が「いのちの夢」を見ており、「星の記憶」と一つになる可能性を秘めるという言及でとどめられ、主人公セルジュは、「今度は自分自身の時を生きろ」という言葉と共に、ゲーム冒頭のオパーサの浜に戻る。このような世界との同一化願望と叶わぬ願いという点においては、ゲーム「AIR」にも共通しており、この2作品においては、この部分の構造がよく近似しており、ギリギリの所で世界と自己との折り合いをつけようとする感触が生まれるのもまた確かなのである。

 このような世界との同一化願望は、同一情報の過剰摂取の他、我々の日常生活においてもあらゆる場面において立ち現れてくる。ある程度の固着化がなければ、生活の足場・職業の選択・スキル・自信といったものは生まれてはこないだろう。しかし、このような固着化が進行しすぎると、大文字の社会への適応は為されるかもしれないが、固着化によって自己とのコミュニケーションはむしろ断絶されていくことになる。しかし、固着化を拒み続ければ、自分が何者でもないこと、恐怖・空虚感・所属感の欠如などに苛まれ、例え時折のユリイカによって世界の記憶との一体感を味わうことがあろうとも、それは「クロノ・クロス」や「AIR」での表現のとおり、一瞬のきらめきに過ぎない。このような記憶生成の現場に常に誠実に立ち会おうとする限り、それは自らをマイノリティへの道へと追いやることとなる。しかし、記憶は意図・判断も含んだ創造的行為であることを鑑みるに、記憶を大文字の他者に委ねることは為されてはならないだろう。むしろ、そのような創造的行為である限り、記憶の生成はそれこそがゲーム的なのであり、生成の現場に立ち会うことのみならず、知識を注入すること、経験を積むこと、身体で様々な物事を感じ取ること、負荷をかけることなどの全てがゲームのプロセスにあたるのだと言えよう。


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