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恋愛ゲームへの、4つの視点からの考察

 本原稿は1999年冬C57に「lo/ast love.」の中で「1999年恋愛ゲーム総括」と題して発表されたものです。

then-d

0. ご挨拶

 評論を担当させていただくthen-d(ぜんでぃー)と申す者です。

 1999年恋愛ゲーム総括などと、ずいぶん大上段に構えたタイトルにしてしまいましたが、もちろん私がプレイした恋愛ゲームの数は、全タイトル数に比べればほんの一握りです。今年発売のタイトルでは、10本に満たないと思います。その中で、私が選んでプレイしたゲームは、常に「読む」ことのできるものを意識しているようです。やはり、時間を割いてプレイするからには、そこからなにかしら得るものがなければ満足できないと考えてしまうため、このような傾向になるのでしょう。

 もちろん、全てを忘れてゲームの世界の中に浸り、その世界を無心に味わいたいという方向でゲームを選ばれる方もいると思いますし、それを否定するわけではありません。ただ、私の性格や価値観がそうさせてしまうようです。

 このような論考を記す気になる私のような者は、得てして「意味」というものに取り憑かれてしまっているのかもしれません。そういった偏向があるのは重々ご承知のうえ、寛容と暖かいまなざしをもってお読みくだされば幸いに存じます。

 ここで、論の構成について一言述べさせていただきます。一応総論ということになりますので、作品論の集成という形になるタイトル毎の章立ては行わず、今年、私がプレイした恋愛ゲームに通底する切り口の中から4点ほど選んで、そこから横断的に恋愛ゲームについて論じてみたいと思います。各作品は、その視点に当てはまるところに応じて、その都度引用していきたいと思います。あのゲームについての評価はどうなのか、ということがわかりにくいとは思いますが、ご了承ください。作品単体については、多くの方々がレビューとして採り上げていますので、改めてここでやる意義も薄いと感じたので、この方法を採らせていただきます。

 では、最後に。もし、論理的整合性の取れない点や、新たな視点からの指摘、ここでは論じない恋愛ゲームに対する基本的な立場の相違による見解などございましたら、ぜひ私宛までお寄せください。それによって私自身も鍛えられていくと思います。

 それでは、最後までおつきあいよろしくお願いします。

1. 死

mement mori(メメント・モリ:死を忘るるなかれ)

 今年の恋愛ゲームをプレイしていて、最も多く感じることの多かったのが、死に関する言及の多かった点である。まさにそれは死の匂いとして感じ取れるほど濃厚なものであった。とくに、プロモーションの段階から死を前面に押し出してくるものもあり、一時期の明るいナンパ系・ほのぼの系が主流であったときとは様相を一変させている。

 おそらく朝日新聞紙上における、作家の三田誠広の文章だと記憶しているが、「最近の若者に対して物語を書かせてみると、人が死なないと物語が始まらない」という言辞を目にしたことがある。これは、まったりとして均質化し、変化のない自分たちの生活のなかにおいては、人の死くらいが考え得る唯一の衝撃的事柄であるのかもしれない。逆に言えば、死に対する充分な吟味があって死を扱っているのかと言う点には非常に疑問があるということになる。この点について、恋愛ゲーム(以下『恋G』と略称)において考えるとするならば、プレイステーション版『To Heart』(以下、『PS-TH』と略記)のなかにそのヒントが隠されているように思う。

 キャラクタ人気がそのシナリオの良さを直接現すものではないが、マルチの場合は、Windows版におけるシナリオの良さに多くの支持が集まった点が大きいと感じられていた。とある調査においては、マルチを第1に推す人はTo Heartキャラクタ内で50%を集め、トップだったという。『PS-TH』発売後においては、このキャラクタ人気が大きく変動し、この偏向が大きく修正されて他のキャラクタが人気面において並んだと聞く。

 これは、非18禁化による、シナリオの改造によるところが大きいと言える。マルチの場合、メモリが消去されることを死と捉えるならば、主人公(以下、強引だが浩之と略記)と共に過ごす最後の一夜(Windows版)での、痛切に死を意識した2人がPreciousな時間を共有する点、死を意識しながらも互いを求めずにいられない感情が表現されていた。ところが、『PS-TH』においては、この夜のシーンが全面カットされ、代わりのイベントが配置されていた。しかし、これが死に対する切実さを表現できているとは到底思えないものであった。このシナリオの改悪が、マルチ自身の存在のはかなさというものを全く消し去り、魅力の薄いキャラクタとして再構成されてしまったという側面が見えてくる。少なくとも、性表現は一切除くが、夜には浩之の家に泊まり、翌朝に研究所に帰るという点だけでも表現すれば、かなり変わってきたのではないかと思う。

 この例は、死に対する表現を直接的に行わずとも、死に対する姿勢を切実に叙述し、死に真っ向から向き合うことを意識することで、そのキャラクタの魅力が大きく膨らむという点を示唆している。これから、死というものは、単に人間の生の終点であったり、一般的に考えられるような絶望・断念・孤立のみを表現するものではないということが読みとれるであろう。

 『Silver Moon』の場合、主人公の日吉亮は、ゲームの冒頭部においてGEOという英才教育機関にいるときのことを「つまらない日常、無限に続く倦怠」「ただ虚無だけが続く」と捉えている。実際はもっと非人道的で生死の境をさまよう程の厳しい期間であるが、死に対しては「死んでしまっては、逃避したことになっても脱出したことにはならない」という意識で、生き残ることを第1にせざるを得ない状況がうかがえる。そのような空虚な生から、一見普通の高校生活に転じた亮が知ることになる自分の寿命。そのときに、ヒロインの一途さ・純粋さ・共感から見いだした生の美しさ。彼女らの真摯さに感化されて亮が自分に足りなかったものを見いだし、残り少ない時を100%充実して生きようとする気持ちが凝縮して現れる。これをピアノの演奏というものに乗せて亮の精神が昇華されていく様が端的に表現される。

 ここで、亮が死に対峙するに際して最も重要なのは、死というものを自らが引き受けていかなければならないということに対する痛切な自覚があるということである。真に好きな人を避け、1人で死に赴かんとする自暴自棄に陥るときもあったが、最終的にはヒロインの真摯さに感化されて、生の限界点を見据え、自らがいかに生きてきたかを振り返る。そして、残り少ない生を、本当に大切な人と最期の一瞬まで大切にして生きようとする境地に達する。このとき、亮のなかには突然宣告されて否応なしに襲い来る死を、不条理なものでありながらも引き受けて生きるという覚悟が生まれる。その強さは、ピアノの音色に如実に現れてくる。このとき、亮は死を自分のなかに引き入れ、本来自分があるべきと思う境地に一瞬ではあるが達することができたのではないだろうか。

 物語的には、そのように確固とした精神の境地に至ってもなお、ヒロインの存在が不安を呼び込んだといって(V.A.の言葉)、主人公は獣と化し、死なねばならないが、必死になって一瞬でも自分を取り戻そうと尽力し、ヒロインの助けもあって、いっとき意識が戻る。このあたりのせめぎ合いも、人間が揺れ動く存在でありながら、自己の確立を獲得しようとする過程の一端を感じさせ、なかなかに説得力がある。

 このように、人は死という限界が与えられてはじめて、本来性を求めて真摯な探求を始めるという特徴があるということがうかがえる。これを1つの物語の形として提示できたことで、『Silver Moon』には、大いなる収穫があったと考える。もちろん、SF的設定により亮がV.A.の身体を譲り受ける形で不死の身となって生還することに甘いロマンチシズムを感じ取る点や、奇蹟的事柄を置くことに対する甘さという問題もある。また、亮の死後、ヒロインは1人で生きる空虚感や欠落感を抱える。一度は亮と共に死を共有して本来的生き方を見いだしたはずだが、やはり相互依存を求めてしまうという方向に受け取れてしまうこの点は、死というテーマに対する揺らぎと悪い方向に捉えるのではなく、人の心はある時には岩をも貫く強さを発揮するときもあれば、脆くもなる揺れ動く存在であると好意的な理解をすればよいのではないだろうか。

 死を感じ取ることによって真摯に生きる覚悟をするという点においては、Kanonにおける名雪シナリオにもある程度現れている。名雪の母が交通事故により生死の境をさまよっているとき、名雪は絶望し、全てを拒絶しようとする。名雪のその態度に対して祐一は、過去に自分が(あゆの転落事故の際に)取った態度について

絶望して…。
拒絶して…。
そして…。
【祐一】(…全部、忘れて)
あの時と、ふたりの立場が入れ替わっただけだ。
俺と、名雪の立場が…。

という自覚のもとに、

絶望して、全てを拒絶した名雪。
俺は、それでも名雪のことを好きでいられた。
名雪の支えになりたいと思った。
だから、俺はこの場所で待ち続ける。
7年前の、あの日と同じ…。
この、雪の舞う場所で。

という行動をとる。このときの祐一の気持ちは

絶望感と、孤独感が、俺をさいなむ。
名雪も、同じだったんだろうな…。

という点に共感として現れている。この点においては、死を目の当たりにして自分の決断によって行動を選び取ったという形式では共通している。しかし、この例では何か物足りなさが残されていると感じられた。問題点の第1は、秋子さんが事故に遭ってからこの行動に至までの逡巡の過程が短絡的でいまひとつ説得力に欠ける点、第2に、祐一の選択は名雪のことを精一杯想うことという内心上の選択であり、行動として現れてくるものが少なく、名雪に通じたかどうかが名雪の行動にのみかかってしまう点、第3に、他者の死を自分に引きつけて自覚的に生きるのではなく、母の存在を子供のように求めてしまう母子密着的な名雪の幼さが際だってしまっている点があると考えた。この場合、恋愛関係の成立する2人ではなく、第3者である秋子に対する死の影という点が、深く描写できなかったため、問題点が残されたのであろう。

 では、死すべき存在であると宣告された栞の場合はどうであろうか。栞が死すべき存在であると知ったとき、姉の香里は妹が既にこの世にいないものとして行動することを決心した。これは明らかに死に対する逃避である。これに対して栞は「信じたくないであろう事実を突きつけられて、それでも精一杯生きることができる小さな少女。」であり、「事実から目を背けることもなく、真正面から受け止めること。」ができている。これに対して祐一が同じ心境に至れるかが大きな課題となっている。祐一は期限を切られた1週間のなか、普通の恋人として過ごすことで、普段は意識しない何気ない日常のかけがえのなさを意識しつつ、栞のことを精一杯想いながら時を過ごす。その真摯さが香里の心を動かし栞を妹と認めさせることにもなる。結果的にあゆの「たった1つのお願い」により栞は生還する。だが、それはそれとして、1/31が終わるまでずっと一緒にいる間での2人の死を見据えて生きる姿には、『Silver Moon』における決心や死を引き受けることへの自覚とは異なる、静かな時間が流れている。これは、Kanonのみならず、ONEにも共通することであったが、「美しく静かな日常性への希求」ということがある。死に際して、普段何気なかった日常性というものがかけがえのないものとして自覚されるという図式がここにはある。アニメーション『センチメンタルジャーニー』第12話「沢渡ほのか〜ほのかな恋の物語」において「恋ってのは、何でもないことがとてつもなく幸せになる魔法」という言葉があったが、暗いイメージを持つ死をもって(ONEにおいては死ではないのだが、この世から消え去るという点で近似)それと同類のメッセージを力強く説くことのできる説得力には感心する。

 本筋とは関係が薄いのだが、一言申し添えるならば、日常性というものに対して美しさ、かけがえのなさを強調するのは、それだけ一般的な場合における日常性に対して幻滅しているからこそ発せられる言葉ではないのだろうか。この点については深く検討することはここではできないが、『ONE〜輝く季節へ〜』以来、大いに気になる点ではある。おそらく、絶望が深いからこそ、逆説的に美しさを強調することで、この辛く厳しい世の中を渡っていくための希望となって貰いたいという願望が託されているのだろうと思う。

 最後に、未だ作品として発表はされていないが、今年のプロモーション段階という点で死をセンセーショナルに扱ったと言えるのが、『センチメンタル・グラフティ2』(以下、『センチ2』と略記)であろう。前作の設定があるなかで、前作の主人公であり、プレイヤーが仮託していたその存在を、交通事故死という形で消し去るという行為に、感情的な側面・前作との整合性からとの側面などにおいて、ネット上の各掲示板などでは連日、熱い論争が繰り広げられたようである。

 ここでは、設定の是非はさておいて、『センチ2』における『センチメンタル・グラフティ』(以下『センチ1』と略記)での主人公の死という設定が、やがて提示されるであろうゲーム本編にどのような影響を与えるか、考えてみたい。冒頭から将来への予測となるが、死というものの取り扱いに対して「過去」という条件が既に提示されている恋愛ゲームが少ないため、この作品が格好の検討材料となるために採り上げてみたい。

 大方の予想通り、でゲーム進行については、『センチ1』において主人公が誰かと結ばれたというところまで進まず、高校3年生時において全員に会いに行ったという程度のところまでで止められることになる(はずである)。その設定で、少女達の側から、『センチ1』の主人公の死への対峙を見てみる。

 どの少女についても、小学校〜中学校での想い出が1つ、主人公の死という衝撃が1つということで外見は統一されている。その比重も、ゲームの性質上、なるべく均質になるように配慮されている。がしかし、『センチ1』の時よりも、背景となる想い出が上乗せされて作品世界の厚みが増しており、ヒロイン達の想い出の内容が異なる点から、ここには、1人の人間の死を12通りに受け止める素地があることになる。1人の人間の死を多面的に捉え、ヒロイン達が自らにどう引き受けて生きていくかという試みを12通りの方法で提示できる可能性があるわけだから、これは、設定をうまく生かすことができれば、とてつもなく重層的で厚みのある物語がつむぎ出される可能性がある。『センチ1』の失敗をもとに、シナリオにかなり意識が振り向けられているようであるので、期待したいところである。

 端的に言うならば、死という終わりに「達する」という意識を持って死を絶望・孤独・と捉える見方を廃し、死という終わりに対して積極的に討って出て「関わる」という姿勢で死に臨むことで、生というものをより深い形で再発見し、充実して生きるきっかけを得られるのではないだろうか。

2. 愛

いつかは終わる ひとときの恋でも
あなたは永遠を 私に残すだろう

 恋愛を軸としているからこそ、恋Gなのであるから、愛に関する問題は当然全ての恋Gが持つものである。ただし、ここでは個々の「男と女が結ばれる形」に言及するのではなく、もっと普遍的な面に焦点を絞りたいと思う。そういった場合、人は自分の生が充実したものと感じられるための努力の方向の一つとして恋愛を選んだのであろう。ということは、愛の本質として、見いだせるものは、自分にとっての真実の生は、移り変わることのない、確固としたある種永遠性とでも言うべきものを望むことにあるのではないだろうか。そう考えてみると、少なくとも愛による嫉妬のようなものは本質的には求める対象ではなくなってくる。多種多様な側面を持つ愛の要素のなかから、恋Gで求められる方向性にはいくつかの傾向があることが見えて来るであろう。

 恋Gにおける愛の基本的な形として共通しているのは、他者との共有感覚とでもいうべきものであると考えられる。もう少し詳しく言うならば、自己の存在を他者に認められ、かつただ一人の他者を精一杯受け容れたい、という双方向性をもつ強固な関係性の構築という点であると考えられる。もう少し簡単に言えば強い共感をもとにできあがった絆とでも言うべきものになろう。しかし、この状態が常に理想的なものとして恋G上で描かれているか、というと、少々疑問もある。なぜなら、共感や絆といたものは、多くの場合力強さや美しさとして表現されることが多いが、場合によっては甘美で感傷的にもなり、一歩間違うと、あっという間に他者に対する粘着性の強い依存体質となる点にある。このあたりの相違は表面的には微妙で目立たないが、内面において大きな問題となりうるものである。
 たとえば、『同級生2』などは恋Gを語るときにその先駆性から言及されることが多いが、本当に恋愛を描いているかというと、そうは言えない部分があまりにも多い。あまりにも主人公側の願望充足型で、双方向の関係を築いたとは言えないようなものばかりで、主人公が破天荒な性格の割に、周囲から充分過ぎるほどに認められているのも、こんな世界にありたいという身勝手な願望の直接的な表出とうけ取れる。これはで、関係の劇ではなく、自己愛の表現となるだろう。

 関係性という点については次章で詳しく検討するが、簡単にまとめるなら、愛のなかに他者との関係を見るというのは1つの側面であろう。

 愛の第2の側面は、理想や目的に対してあこがれを持ち、それを獲得することで確固とした境地を得たいと願って進むというものである。この形式は、恋愛関係で言えば自己を磨き、向上していくことで、意中の人の心をつかむという方向性として機能することが多い。最も有名な例では『ときめきメモリアル』(以下『ときメモ』と略記)のゲームシステムである。

 今年の恋Gで見ると、この方向性がよく現れていたのは『ときめきメモリアルドラマシリーズVol.3 旅立ちの詩』(以下、『旅立ちの詩』と略記)であった。ドラマシリーズ自体の基本的な構成は前作を踏襲しており、そこに目新しさはない。しかし、シナリオと密接に関係づけられたマラソンのミニゲームで使われる所謂『ときメモ』システムは、自己の努力によって能力が上昇していくさまを実感するために有効であり秀逸な出来となっている。さらに、ドラマシリーズに共通だが、主人公はヒロインに振り向いて貰うためということとは無関係に自分で立てた目標に対して邁進していく。短期間ではあるものの、その過程と心情が非常に丁寧に描写されており、この表現力は他を圧倒するものがあった。この点において、『旅立ちの詩』は『ときメモ』という厚みのある背景世界をもとに、その世界全体を描写せず、敢えて一部分に焦点を当てることで、深みのある表現が得られたのが、成功の原因だと考えられる。

 第3の側面は、恋愛という2人の間の関係が理想的とも言える境地に達したとき、ある種の神々しさを放つ普遍的な美しさを表現しようとしているという点にある。このような愛の境地に達することを恋G上で体験したとき、我々は感動を覚え、ときには涙することもあると思う。そのような理想郷を現出させようとした恋Gとしては、『Kanon』と『PS-TH』あたりがそうではないかと思わせる。この2作品はそれぞれが全く異なったアプローチをしており、興味深い。

 まず、『PS-TH』の場合、主人公の藤田浩之(名前は変更できるが、敢えてそう書かせて貰う。この主人公は既に一つの確固とした人格を備えており、変更することはそぐわないと考えているため)は幼なじみや級友に恵まれ、マイペースを貫徹できる状況に常にあり、恋愛対象を選ぶのは意中のキャラクタの現れる箇所を重点的に回ればよく、選択がお好み次第といった感がWindows版より強まった。さらに、性的な表現が規制されて、あかり・マルチのシナリオが変更されたことにより、切迫した状況や限界につき当たるという状況が更に薄れ、ほのぼのとした感じがますます強まった。これにより、理想的な状況に生まれ落ちた主人公が、自らの自由な意志によって選択した行動によって、将来を約束するヒロインと大切な時を積み重ねていくという構図がより鮮明になった。このような状況的理想郷というものが『PS-TH』には具現されている。このような状況は、ほのぼの系といわれる作品には多かれ少なかれ含まれているが、なかでも『PS-TH』はゲームとしての完成度を考える上でも境地と言えるものである。

 この『To Heart』という作品を考える場合、Windows、もしくはPC-98シリーズでのLeaf Visual Novel Seriesを知る者にとっては、少しうがった見方ができるかもしれない。『To Heart』では、結果的に理想的状況ができたのではなく、それまでの『雫』『痕』という作品が持つ特有の暗さや精神的抑圧、淫靡さを払拭し、新しい境地を具現しようとして確信犯的に作り上げた理想郷ではないかという思いが強い。特に、『ONE〜輝く季節へ〜』(以下、『ONEと略記)』や『Kanon』にある疎外感・孤独感、精神的抑圧といったものは既に『雫』の中にも垣間見ることができる。

 『Kanon』の場合は、主人公・相沢祐一の部分的記憶喪失に始まり、ヒロインは過去に陰りを持っていたり死と直面する状況にあったりする。そのような限界に突き当たりながらも、日々の交流を通して二人は向き合い、関係を深め、最後に多くの場合「いつ、どこでも一緒」という意味の言葉をキーとして愛の完成を見る場合が多い。特に、舞と名雪においては顕著である。これによって祐一はヒロインを完全に受容するという決意と確信をもつ。その後の歩みはEndingの輝きを持つ音色、強めのビート、明るいボーカルの声質という曲の特徴によく表れているように、未来は明るく輝かしく、一点の曇りもないという理想的な境地へと達する。ただ、真琴シナリオにおいては、祐一は天野と関係を深めていく予感を持ったまま、真琴への想いを抱きつつ終わる。また、付加的な佐祐理シナリオにおいても、努力の途上であることを強調しつつ終わる。このあたりであっけらかんとしたHappy一辺倒の終わり方を避け、自らを対象化・重層化する点が見られるのは、この理想型に対する問題点に気づいたからかもしれない。

 この理想郷的世界は、我々を一時の間受容し、充足させてくれるだろう。しかし、我々がゲームの世界から外に出たとき、その完全な世界は自らが進み、切り開いていく世界にはどれほどの力となりうるのであろうか。その点がはなはだ疑問である。

 この疑問を率直に呈した例が、アニメーション『天空のエスカフローネ』(以下『エスカ』と略記)第26回「永遠の想い」におけるドルンカーク(=アイザック)の言葉にある。

愛し合う2人が、2人の想いが、この絶対幸運圏を凌駕したのか…?
しかし、移ろいやすい人の想いが、永遠となりうるのだろうか?

理想的な境地に立ち会うとき、我々は、まさにこの疑問に達している。もちろん、愛の完成というこの瞬間に達したピークにおいて、人生は終わることはない。必ず、下り坂の時はやってくるし、それに対してはどうあがいてでも人は生き続けなければならない。

 しかし、有限であるはずのものが無限であると素直に感じ、感動できる瞬間は誰のもとにもあるはずであり、『エスカ』においては、バァンとひとみの愛の完成をみて、ひとみは異世界であるガイアから自分のいるべき世界である地球へと帰っていく。この帰還ということは非常に重要である。ひとみにとってはガイアにいることは、それ自体が物語世界の中にいることと同値であると読めそうなのである。また、そう置き換えると我々が恋愛ゲームの中で感じ取った愛の理想型を見たことと全く同様の形がここにあることがうかがえる。そう考えると、ひとみが地球へ帰ることは必然性を持って受け容れられるのではないだろうか。もし、作品世界に一時的に没入することはあっても、それとはまた異なった外の世界が厳然として存在するのだから。

3.  自己と他者

別々のリズム だから奇蹟が起こるのかしら
別々のメロディー だからこんなに大好きなんだ
耳を澄まして 未来を感じてる

 恋Gにおいては、ほとんどの場合、1人の男性主人公に自分を仮託し、ヒロインとして位置づけられる女性と交流し、関係を深め、結ばれるという大前提が存在する。この流れの中でもっとも重視されているのは、自分と異なる他者との出会いであろう。しかし、恋Gの中にも多数、自己と他者との関わり合いに対する洗練・吟味が不足し、単なる願望充足型のものが多く出回っていることは、第2章で言及したとおりである。作品の中のみならず、実際に「萌え」なる言葉を用いてヒロインに対してべったりの態度をとり、どれだけそのキャラクタに対して同一化できているかということを競うような風潮すら見かける。この章では、同一化願望と関係性の構築との相違という点を中心に、恋Gにおける人間関係の描き方を見ていくこととしたい。

 恋Gの世界において、現在、最も人間関係という点に対して自覚的・意識的で、作品に対してもその点をストレートに持ち込んでいるのは、『ONE』や『Kanon』の制作スタッフ達であろう。前者においては、主人公が「えいえんのせかい」に旅立たねばならないと悟ったとき、現在生きている世界の中で、最も関係を深めてきたヒロインに対して絆を求め、それが充分形づくられていたとき、帰還することができるという物語の構造として現れている。充分形づくられていたというのは、主人公が求めるのみならず、相手からもそれ以上に必要とされ、相手の存在によって自分も生かされているんだと感じ取るような心境に昇華したときのみに当てはまる。

 後者『Kanon』の場合には、過去の悲しい出来事に関する記憶を失い、拒絶することとなった祐一が、その出来事のあった街に戻ってきたときに生まれる人間関係と、過去の出来事との間で、どう自己を位置づけていくのかということが問われている。過去の出来事が直接関わってこないサブシナリオ的ストーリーにおいても、他の過去の出来事が随所に交えられながら、それをふまえつつ、祐一はヒロインと共にいまを受け容れ、明日を共に生きようと互いに誓い合うことで生きる力をお互いが見いだすという方向性を共有する。

 『Silver Moon』の場合は、死の影の濃密さの点から第1章において指摘したが、その限界とも言える状況の中で、真摯に生と死を見つめ、自分に本当に必要なものは唯一の存在であるヒロインであったということを感じ取る。この点で、『Silver Moon』の人間関係に対する設定のしかたは、『ONE』と近似していることが分かる。ただし、『ONE』の場合は、「えいえんのせかい」という、生きながらの死と言える状況を設定したことが希有の存在であるため、この点において他作品と大きく異なる点があることを付記しておく。

 このように見てくると、『Kanon』や『Silver Moon』における人間関係の設定には、人間が真摯に、本来的な生き方をしなければならない、と決心するのは、他者からの強い呼びかけや真剣な願いがあるからこそであるという点がふまえられていると考えられないだろうか。物語の文脈として、出会いから魂の交感があり、誓いが交わされ、未来に向けた時間の中で(その長さが死の予感として限られることがあるが)人間の真実の生き方が生じてくることがあるのだという強い訴えが秘められているように感じる。

 ただ、良いと感じられた点ばかりではなく、疑問に思う箇所もいくつか見られた。『Kanon』の例で、「いつも、ずっと一緒にいる」という主旨の発言がやけに強調されている点にある。特に、名雪との関係で

『名雪…』
『俺には奇跡は起こせないけど…』
『でも、名雪の側にいることだけはできる』
『約束する』
(中略)
『俺は、ずっとここにいる』
『もう、どこにも行かない』

と述べる点や、舞との誓いの中で

【祐一】「それに舞がこうなったのは俺のせいでもある」
【祐一】「だから俺もずっと居るよ、舞のそばに。ずっと一緒にな」
否定され続けてきた力も含めて、俺は舞を好きで居続ける。
そうすればきっと舞は、自分の力も許せる日がくる。
(中略)
【祐一】「夜の校舎では非力だったけど、日常の中では俺はおまえを守ってやることができる」
【舞】「道ばたで泣いてしまうかもしれない…」
【舞】「ご飯食べてたら、不意に泣き出してしまうかもしれない」
【舞】「それでも慰めてくれるの…」
【祐一】「ああ。道ばただったら、泣きやむまで隣に立って待ってやる」
【祐一】「ご飯中だったら、俺も食べるのをやめて舞と話をしてやる」
【舞】「それで泣きやんだら…冷めたご飯を一緒に食べてくれるの…」
【祐一】「ああ、冷めたご飯だってなんだって食ってやる」
【舞】「夜中に起き出して、泣いてしまうかもしれない…」
【舞】「祐一の知らないところで、ひとり泣いてしまうかもしれない…」
【祐一】「寝るときも、おまえのそばにいる」
【祐一】「泣く声が聞こえたら、すぐに起きて、温かいものでも入れてやる」
【祐一】「そして、俺の知らないところになんて、舞はいかせない」
【祐一】「舞は、俺のずっとそばにいさせる」

精神的な繋がりの強固さを表し、理想型としての人間関係を象徴した言葉として、2人の心が真に通じ合う場面にいつも一緒にいるという主旨の発言が用いられているのだが、ここにはある種の危うさが存在する。この態度を対象化する言辞が、村上春樹の『ノルウェイの森』にある。

「……(前略)……たとえば今こうしてあなたにしっかりくっついているとね、私ちっとも怖くないの。どんな悪いものも暗いものも私を誘おうとはしないのよ」
「じゃぁ話は簡単だ。ずっとこうしてりゃいいんじゃないか」と僕は言った。
「それ――本気で言ってるの?」
「もちろん本気だよ」
(中略)
「でもそれはできないのよ」
「どうして?」
「それはいけないことだからよ。それはひどいことだからよ。それは――」
(中略)
「それは――正しくないことだからよ、あなたにとっても私にとっても」とずいぶんあとで彼女はそうつづけた。
「だって誰かが誰かをずっと永遠に守りつづけるなんてそんなこと不可能だからよ。……(中略)……私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの? ねえ、そんなの対等じゃないじゃない。そんなの人間関係とも呼べないでしょう? そしてあなたはいつか私にうんざりするのよ。俺の人生っていったい何だったんだ? この女のおもりをするだけのことなのかって。私そんなの嫌よ。それでは私の抱えている問題は解決したことにはならないのよ」(『ノルウェイの森』上巻 第一章)

 この例については、直子には幼少の折からずっと一緒に過ごしてきて、精神的に分離していないと直子自ら感じるほどの、キズキという存在があったことを考慮する必要がある。彼は高校生の時に既に自殺しており、この時点においては既にこの世にない。キズキと直子の関係は「何かどこかの部分で肉体がくっつきあっているような、そんな関係」だった。ここには、理想的な2人の関係を経験してしまった後の私たちは「少しずつ不幸になっていったと思うわ」「世の中に借りを返さなくちゃならなかったから」という認識にある。そして、前の引用にある「僕」の存在については「最初の他者との関り」と捉えている。

 これは非常に極端な例であるが、あまりにも理想的で自己と他者との区別ができないほどの同一化を果たした後の2人の関係というものは、後々の時間の経過によって結びつきが弱まるようなこがあると不幸としか感じ取れず、自分が100%受け容れられて幸せだったときと比較して、現在の物足りなさのみを感じ続け、完全・完璧な境地が得られないことは絶望としてしか認識できなくなるという危険を伴っている。

 このように、表層では微妙な相違ながらも深層においては大きくなる、他者の受容に関する難題が潜んでいる。この点については『ノルウェイの森』に限らず、多くの文学作品においても、問題となりうる課題である。この点については、様々な関係の断面を見つめながら、自分なりの回答を見いだしていくほかないのが人生における主要課題なのであろう。この後は、『Kanon』以外の作品において、自己と他者の関係がどのようにおかれているかを見ていきたい。

 『旅立ちの詩』については、詩織と見晴の2人のヒロインについて排他的に関係性を構築する可能性がある。詩織の場合、幼なじみという設定を存分に生かし、ノスタルジックで類型的ではあるが、プレイヤーの共感を得られる形で過去の時間の共有という点を提示している。それをバックボーンとして、マラソンに打ち込みながら自分を見つめ直し、自己の充実を求めていく主人公。そこには、詩織の「充分がんばった」「一緒に卒業しよう」という進言に従わず自己を貫き通す。、2人のあいだは完全な意見の一致はしていない。それでも、向き合う2人の根はしっかりと繋がっており、結ばれることとなる。ここには、自立と自己決定の力強さが甘ったるい恋愛関係よりも強調されており、前向きに生きる力をアピールしている点で、成功を収めている。

 しかし、見晴の場合は、彼女に特有の設定としてある突然のラブ・ストーリーとも言うべきものに属するだろう。見晴といえば、『ときメモ』本編では常に不可解で不条理な行動によって主人公に対する恋愛感情をぶつけてくるという設定上の縛りがあった。これをやや踏襲した感があったため、主人公に対する一途な愛情表現は、認められたい、受け容れられたいと渇望しつつ得られないプレイヤーにとっては福音とも言うべきものであろう。しかし、傍目から見ると共感することはなかなか難しい。この点において、詩織と見晴の初期設定の相違が浮き彫りとなって、どちらかというと対照的と言えるストーリー構成になっていたと思われる。これは、リアリティとファンタジーを1本の作品で同時に楽しむという目的によって匙加減された、作為的なものではないかと考えるのが良さそうである。

 『PS-TH』においては、浩之は既にあかり・雅史・志保らによる友人関係によって作品世界内に安定した境地で立っており、周囲からの受容は充分になされている。また、他者によってのみならず、自分の位置を見定めることができており、充分自己肯定もなされている。他者との関係のとり方も、気さくな人柄、自信、行動力によって自ら道を切り開く術をわきまえており、恋Gの主人公というより、さわやかな印象を与える青春ドラマの主人公という立場に近い。このため、どのヒロインと結ばれるにしても、前向きに、未来へ共に歩む姿勢という点が多く含まれている。このように、『PS-TH』においては、世界設定自体が、全てを安定した境地へ進めようとする後押しをすることで、独特の肯定的な空気に包まれたほのぼのした世界を創出している。これは、逆に言えば人間関係の葛藤や逡巡の過程を排除した点で理想化に傾きすぎると言えるかもしれない。目に見える逡巡は琴音が被差別的に扱われ、私に関わると不幸になると自らの存在に否定的になっていることと、智子が、他者から距離を取る原因が、他者に異質と見られたことの他に、自ら避けている点に現れてはいる。しかし、解決の過程は常に積極的、肯定的な浩之の助力に後押しされ……という方向性であり、浩之自体のアイデンティティが揺り動かされ、他者の影響によって変わっていくことが見られないのが、食い足りないと感じさせる原因となっている。

 このような例から、人間関係においては互いに腹の内をあかしあい、互いを吟味し合うことで開かれた関係を築いていこうとする努力が必要で、その過程を丁寧に描くことが恋Gの魅力となるだろう。しかし、完全・100%の境地を獲得することは、実際の人間関係においては不可能であり、そのような表現を恋G上ですることは、図式的な理想郷を形成するだけで、かえって人間味を減退させることになる。人間には感情があるのだから、振幅があり、揺れ動くのが当然である。その中で、自ら相手を選び取り、その存在を引き受け、関係を誠実に見据えてその中に立ち、相違点があっても完全を目指さずにその場に留まることが重要ではないだろうか。しかし、こういう状況を選び取ることは、逆に、自らを拘束することになるだろう。しかし、不自由だからこそ自分の意志を反映させることもできるということもあるのではないか。不自由だからこそ、自由を発現できる場所もあるのではなかろうか。

 この好例としては、TVアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』(以下「TV版『エヴァ』」と略記)最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」の1シーンに同様の表現があった。このシーンでは、シンジが白紙の「何者にも束縛されない、自由な世界」にいながら、どうしたらいいか分からない。ゲンドウに「不自由をやろう」と言われて線を1本引かれることで天地ができ、自由が限定されるが、シンジは逆に安心する。自らの足で歩くことのできる地ができたためである。そして、その中でもまだ「自由に動く」ことはでき、世界の位置を変えることもできる」。また、「世界の位置も常に同じところにはな」く、「時の流れと共に変わっていく」。それと共に「君自身も変わることができ」ると言われる。このシーンでは、自己意識に対してのみという点で限定された解釈を与えられている。しかし、自由という言葉についての解釈としてははずれていないだろう。また、この作品について、TV版の最後の2話は自己啓発セミナーににすぎない等の批判もあるだろうが、ここではそれは問わない。だが、引用したシーンについては、そうであろうとなかろうと素直にその内容を肯うことができるであろう。このことからも、人間関係においては、他者という自分の思い通りにならない不自由にぶつかりながら、影響を受け、または与え、関わりの中で生きていこうとする意志を持ちつつ歩んでいくほか道はないのであろう。

4. 幸福論へ

そうさ君は 気づいてしまった
やすらぎよりも 素晴らしいものに
地平線に 消える瞳には
いつしかまぶしい 男の光

 手垢がついた言葉になってしまっているが、いまだにはっきりとした姿を表さないのがこの幸福と呼ばれるものである。少し知った人ならば、「幸福の形なんて人それぞれ」といって突き放すこともあるだろう。それは一面の真理ではあるだろうが、他者に対する思考の停止・理解の放棄であり、それは他者に対する拒絶が意図せずとも含まれており、人間に対する諦念が内包されている。第3章でも見てきたように、人は関係の中に生きてこそ人である。よって、自己の幸福もその文脈で考えない限りどこかに歪みが生じてくる。その基本的な立場に立脚し、恋G上で表現される幸福の姿をふまえながら、拙論のまとめへと導きたい。

 人間関係ということを強調したが、人が幸福を考えるとき、それに対する途のあとづけかたとして、2通りの方向性がある。平易な言葉を用いるが、基本的なことであるので、このことについてここで確認しておく。1つには、「私が幸福になるためには、世界全体が幸福でなければならない」という観点、もう1つには、「私自身が幸福でなくて、どうして世界全体が幸福たりえようか」という視点がある。もちろん、ここでは恋Gを念頭に置いているため、どうしても個の幸福という方面から考え始めることとなる。ただし、その方向性があくまで一個人の立場に限定されるものではなく、一人ひとりに普遍的に当てはまるものとして捉え、個別性にのみに限定されるものではない方向で考えていくことは言うまでもない。これはあくまでアプローチの相違である。

 人が幸福を考えるとき、それはあくまで自己の内部でのイメージとして考えられるものである。そしてそれは、百人百様の想いが交錯し、ある種カオスに見えるまさに「人それぞれ」の世界の中にあって、方向性は限定されているとしても、自分にとって妥協のない・揺るぎないもの、すなわちある種完全性をもったものへの希求である。短絡的に言ってしまえば、幸福とは一種の幻想なのである。

 その中で、よくある例として第1には、安寧としての幸福という形がある。恋Gでいえば、その世界全体が主人公自体の存在を認め、安定した境地にあり、主人公自身の存在に危機が訪れないという状況にあるものである。代表的な例は『同級生2』『ときメモ』であり、『To Heart』であろう。これらには、他者による承認によってある種まったりとした世界に浸っているという点が否めない。恋Gにおいては物語世界という限定された中にあるからこそ、このような状況が成り立つのである。逆に幸福という立場から言えば、あくまで自己イメージの中だからこそ成り立つ幸福の形であると言えよう。この例の場合には、自分自身が、これはあくまでイメージによるもの、限定された場所においてしか成立しないものという自覚があり、一時の慰謝としてその世界に浸るということであれば、自分自身でその世界に対する限界を感じ、対象化・客観化する視点を持っているので、さして問題はない。このような世界の例は多くの歌の中で歌われたり、多くの物語世界として形成されている。それでも今日までさして問題にならなかったのは、内と外との世界の区別が無意識に自覚されていたからである。

 しかし、最近では、社会全体が非常に拡大し、そのせいで逆に一人ひとりが受け容れることのできる世界は相対的に狭まってしまった。この状況下、恋Gという世界を多く受け容れた者は、その世界が自分の中ので多くを占めるようになり、これこそが自分の求める世界なのだという転倒が起きる。そうなった場合には、内部の世界は自分自身が創造の源泉となったり価値判断の根源となってしまうので、完全なるものを具現できてしまう。しかし、外部からの力には、逆に無力をさらけ出すことになり、壊れるときは一瞬である。『風の谷のナウシカ』マンガ版(以下「マンガ版『ナウシカ』」と略記)第7巻においては、ほぼ完全に外界から閉ざされながらも、内部において芸術・農耕・美しい自然の保存された庭が、完全なる美と安らぎを与えてくれる場所として示されている。ここには美しいもの、清浄なるものが集められてはいるが、主であるヒドラの園丁はナウシカが去ると「またつまらなくなるね」とつぶやく。ここには、全てがあり、そして、全てがない。

 第2には、理想を常に高く掲げ、それを追い求め、勝ち取ることに価値を見いだすものである。よくある方向性として、まず少年マンガにおける果てなき戦いの道程に陥るというのがある。あるボスを倒すとそれより強い敵が現れ、それに打ちのめされるが、また努力して自分を磨き、その敵を倒すという構図である。これは理想がどこかで価値転倒を起こし、欲望になり果て、欲望充足の永遠的な呪縛に陥った例の1つである。

 これとは異なった方向としては、理想社会の実現ということで社会・政治的な運動に向かう方向がある。口当たりはよいが、このような全体性への希求は挫折へ向かうしかない。なぜなら、ここには一人ひとりの人間の相違が全く顧慮されておらず、単なる歯車のように解釈された人間があるだけだからである。このような場合、その理想を目指した者は、自分の理想についてこない人間の愚かさを憎むようになる。『風の谷のナウシカ』漫画版においても、土鬼(ドルク)帝国の初代神聖皇帝がそのような例として描かれている。「みな自分だけは誤ちをしないと信じながら、業が業を生み悲しみが悲しみを作る輪から抜け出せない」という言葉にあるように、人の世はどんなに理想を求めても同じ位置からは動かないという諦念に達する。

 別の例として、『エスカ』においては、「絶対幸運圏」を生み出すことで、全ての人の想いを叶えるという理想社会の実現をもくろんだドルンカークだったが、一人ひとりの欲望が加速度的に増大し、殺し合いを始める世界を見て「滅びが人の定めならそれを受け容れるしかないのか……?」という諦念に至る。ドルンカークは、貧困と搾取の渦巻き、絶望の影が充満するザイバッハに立ったとき、人々の幸せのため、自分が地球にあってアイザック=ニュートンとして培ってきた科学力を理想と使命感のために用いてきた。その最終形態がアトランティスの智恵と技を具現化した絶対幸運圏の形成であった。しかし、ドルンカークには、人の想いの中には邪なるものも多く含まれるということを無視して全ての想いを叶える世界を発動させたため、欲望の爆発的増殖による混乱を招いた。

 マンガ版『ナウシカ』にあっては、腐海の中に生きる人々は過去の技によって人工的に造り替えられ、浄化された世界では生きられない生物として置き換えられている。ここには、作者宮崎駿自身が抱いた、清浄の地には決してたどり着くことのできないのが人間であるという強い諦念が設定自身に具現されているのものであろう。その中で、生命は清浄と汚濁の双方を併せ持つものとして捉え、世界再生の鍵を握る墓所の主が「生命は光だ!!」と言うのに対し、「ちがう いのちは 闇の中の またたく光だ!!」といい放つ。

 これは、『エスカ』における人間の理解にも通底している。欲望の増大による混乱はバァンとアレンをも欲望の中に巻き込む。ひとみにおいては、ここに至るまでに、自分の願望によって占いの結果を歪めて相手に教えたり、親友の想い人を先んじて得ようとするなど、逡巡を繰り返し、確固とした人格を与えられているわけではない。そしてここに至るまでに醸成してきた「本当に人を愛すること」を求めることで自分を見つめ直し(背景黒色の心理劇中、多くの絡み合った糸を断ち切り、「ごめんね。分かってないの、私の方だった」から本当に人を愛すること」に思い至る場面)、その結果バァンを欲望の臨界から目覚めさせる。その後は、第1章で引用したドルンカークの言葉にあるように、愛し合う2人の想いが絶対幸運圏を凌駕することによって欲望の連関は断ち切られ、ガイアは新たな出発の時を迎える。

 すっかり恋Gから離れてしまったが、幸福として個人の欲望の完全なる充足を求めたりすること、または逆に一個の人間が全体性への希求を抱くことは、どちらもその限界に突き当たり、充足されることはないということが示されている。その中で恋Gの果たす役割というのは、全体性・個別性の中に解消されない人間関係の綾の中で、真摯に他者と向き合い、生への充実を求めるところにあると言えるだろう。これは第3章の中でも触れたとおりである。

 さて、ここまで考えてきたことによって、世界のありよう受け容れ、男女の1対1(あくまで「対」に限定されたもの)の人間関係の中にある幻想(これも、やはり幻想の1つではある)を具現化したものが恋Gであるということになるだろう。しかし、その中にあって、近年の恋Gにおいては、主人公が自分の現在いる立場や自己の内面に対して自覚的に振る舞う例が多い。特に『ONE』『Kanon』『Silver Moon』『Prismaticallization』(未プレイ)には顕著で、『旅立ちの詩』ですら、序盤に「自分には、何もない」などという言葉が現れる。そこには自己に対する視線、自己意識というものが根底にある。始まりは、自分自身を見定めるところにある。

 このような場合、初めのうち、主人公自身は自分が把握している自己をそのとおりに捉え、理解してくれる他者がいない、自分を誰も受け容れてはくれないという位置に立っており、それが主人公の暗さや鬱屈した人間像を創り出すこととなっている例がある。もちろん充足されない感覚は逆に向上への1つのエネルギーとなりうるから必要なことではある。しかし、誰も自分を分かってくれない、と嘆き、世界に対して呪詛を繰り返すだけでは受動的であり、そんな人間に対して魅力を感じる異性もまた少ないであろう。

 この様な鬱的連鎖は、逆に自己に対する意識過剰の中から生まれてくる。意識過剰とは、「こんなはずではなかったのに」という反省過剰、「どうすればいいんだろう」という思考過剰と連鎖し、実際の生活の一場面一場面において、何も選択できなくなるという状況に陥ってしまう。そのようななかでできることと言えば、自らの嗜好を延々と並べ立て、自分の意志で選択できる場所を狭めて気分的な安寧を得て、限定された状況の中で自己の快・不快という感覚一本で物事を処理していこう、そのようなことができるように世界を狭くつくりかえてしまおうということになる。このような方向で思考停止をしている状況は、いじめなどの例によく見られる「クサイ、キタナイ」という言葉や「ムカつく」という言葉で多くを排除するという現象によく見られる。

 では、そのような思考停止に陥らずに考えを続けていけば解決は得られるのだろうか。人は考えている限りにおいてはどの方向へ進むかという可能性が100%保証されている。しかし、実際に1つの方向を選んで歩を進めると、その他の無限の可能性はその時点で消し去られてしまう。その限定されるということ、可能性を捨て去るということは一度思考するという智恵の実を食してしまった者にとっては大いなる苦痛となるだろう。しかし、無限に続く思考の綾、たぐり寄せる反省の糸を断ち切るにはまさに文字通りの「決断」が必要となるだろう。

 もちろん、決断したことによって思考はむしり取られ、その断面は空しく宙に漂い、多くの可能性は闇の中へと消え去る。しかし、暫定的ではあってもその形は永遠に安定しないアメーバのようなものから脱して一つの確固とした形を定着させることだろう。智恵の実を得たことで一度は深く考える経験をしたのなら、その自ら歩んだ過程を信じ、一定の地点で決着を付けてその後は突き進んでみるしかないのではなかろうか。

 思考を行為に移させるものは、思考自身をやめるしかその解決方法がないということであるが、これは自由を失うことである。自由を捨て、自分自身を限定された生の中に縛りつけることになる。しかし、そのようにして不自由を選び取ることによって逆に行動することの自由が得られる。これは第3章で引用したTV版『エヴァ』のゲンドウによる「不自由をやろう」の言葉どおりである。そして、行動することによって生じるその結果を自分のものとして引き受け、それをもとにまた考えを巡らし、行動するというようにフィードバックさせていくフレキシビリティを持ちながら、この世界を一歩一歩、自分自身で感じ取り、味わっていくこと、それこそが人間の姿なのであろう。

 このような方向で人間を描写し、生の力強さを表しているのも最近の恋Gの特徴である。『Silver Moon』においては、死を自覚して一度は全ての関係を断ち切ったところで死を迎えようとするものの、自分が真に好きな人のことを自覚し、相手の想いに応えることで自分も充実することをおぼえる。そのことで精神を侵されながらも最後の瞬間まで自分が自分であろうとギリギリの努力を続ける。『旅立ちの詩』においては、自分には何もないという実感から、ふとしたきっかけでマラソンを始め、それによって自分の生の目的、充実感を得ていく。見晴シナリオにおいては一方的に想われる図式の浅はかさが見られるが、詩織シナリオにおいては、詩織の「もう、充分だよ」「一緒に卒業しようね」の言葉を蹴ってまで、卒業式の日、1人でマラソンコースを走る。逡巡し挫折を味わいながらも、自分の意志によって選び取ったものを最後まで貫く力強さがここには現れている。

 今年の作品ではないが『ONE』においては幼時の「狭量な世界観をもとに造られたよって形成された狭量な自閉世界」に一度は入り込むことになるが、その「世界観を破壊し、いま、ここにある現実とそこに生きる人間との対峙を経て自らを囲う殻を破り、新たな生を歩み出そうとする」(以上、『ONE』に言及した2箇所の引用はthen-dの『ONE』論「私論・試論・恣論?」に所収)という点で、決断による生の充実が描かれている。完全性という点を求めるならば、いま、ここを生きる決意でEndingを迎える『ONE』は全く不完全なものである。しかし、ある意味中途半端だからこそ、その後の生は自らがその場その場にあって改めて考え、試行錯誤によって切り開いていくべきものであるという含意があるのではなかろうか。それを示唆するように、Endingに流れる音楽(タイトル「輝く季節へ」)は、非常に抑制が利いたストイックなものである。エコーが利いたその淡い音質は『Kanon』の輝かしさとビートの利いた力強いものとは対照的で霞がかかった未来への歩みを一歩一歩進めていこうという意志が感じられるものであった。

 『Kanon』においては、舞シナリオの中に『ONE』の世界と近似した例があった。祐一と別れたくないという想いによって形成された舞は、自分の生み出した世界に縛られ、夜ごと魔物と対峙する日々を過ごす。しかし、それが自らが持つ特殊な力によって生み出されたこと、それを切り捨てるのではなく、自分の一部として受け容れ、祐一と共に生きていくというものである。この例では、舞が自らが作りだした世界を破壊するのではなく、切り離して敵と見なしたものを自分のものであるとして受け容れるという違いはあるが、幼時のある想いから生み出された世界を脱する決意をし、改めていま、この世界を祐一と共に生きる決意をするという点では通底しているだろう。

 このように、恋Gの中には、恋愛描写のみならず、決断によって新たな生へと歩み出す姿が描かれていることがかなり強調されていることが分かるだろう。しかし、我々受け手側は、そのような物語をただ受容しているだけではまだ思考の過程の中にあるに過ぎない。自ら決断し、行動し、選び取っていくという過程の中にある充実感、それを自ら味わうことが求められているのではないだろうか。いま、私が言えるのはそれだけである。私自身もまた、長い道程の途中にいるのだから。

5. 参考文献

<恋愛ゲーム>……例示を引いたもののみならず、思考の素地となったものを含めて挙げておく

○1999年発売のもの(プレイした順。ただし、全てコンプリートしているわけではない)

○1998年以前にプレイしたもの(思いついた順<影響の大きい順か?)

<アニメーション>

<単行本>

<雑誌>

6. あとがき

 いや、どうも長い間お疲れさまでした。これほどまでになるとは本人自身全く思い至っておりませんでした。しかし、長いわりには論点が拡散し、例示は非常に限定された範疇でしか現れないということで、自分の力不足を思い知らされてしまいました。本当は例示できるネタをもっと事前に集めておかなければならなかったのですが、テキスト抽出できたものは『Kanon』くらいなものだったので、テキストの分に基づいた分析が精確にはできずじまいでした。そうすると、どうしても頭に強く印象づけられたものを曖昧な形で持ち出ことになり、幅の狭さを露呈することとなってしまいました。

 それに、プレイした恋Gが少ないという根本的な問題を抱えていますね。上記参考文献に挙げたものに加えて、今年の作品で、PCなら『加奈〜いもうと〜』『終末の過ごし方』『夏祭』、コンシューマなら『Memories Off』『Prismaticallization』あたりを引用・言及できるくらいにしておけば良かったと感じています。特に『Prismaticallization』は哲学的思考実験とでも言うべきものらしく、これをプレイしておいたら、論が大幅に変わってきたかもしれないと思います。時間的に無理だったかもしれませんが、『ときめきメモリアル2』によるときメモシリーズの進化の方向性も見定めていく必要があると思います。個人的にはシナリオ派という傾向もあり、『旅立ちの詩』における、これまでの目標であった伝説の樹を捨て去って、いまを生きるという力強さ(詩織シナリオ)には敵わないだろうというのが私見ですが……。

 また、プレイしたゲームの中でも、『こみパ』と『とらハ2』にはほとんど言及しませんでしたが、これは私がほとんど記憶していないという状況によるためです。しかも、『こみパ』に至ってはその某まんが祭礼賛の風潮が、どうしても制作者サイドの自己弁護・開き直りの産物に見え、全く共感できませんでした。これもある意味安寧としての幸福の中に安住してしたいという願望の現れなのだろうなと思いました。『とらハ2』は、ほのぼの系ですから、位置づけとしてはTo Heart辺りに近い、安らぎを与えるものではないかと思いますが、どうでしょう。少しプレイしただけでの感想を言わせて貰えば、恋愛という枠の中で何を見せたいかがはっきりしているため良い出来となっているのではないかということがうかがえます。ただ、設定が突飛であくまでファンタジーであるため、関係性の肯定感に溢れてはいるものの、外への指向性が薄いため、物語的深さはそれほどではないのか、と思います。が、いずれにしても今年の作品中では秀作であることは間違いないでしょう。

 それに、本来ならもっと違った作品を例として持ち出すべきでした。たとえば、最も恋Gの文脈に沿った映画である『耳をすませば』と比較して恋Gの構造をあぶり出すということや、人間関係についてネットワーク社会という新たな視点から描写した『serial experiments lain』に対する言及も必要でしたし、ストーリー構成やテーマについて少女マンガと比較するということもやってみたかったのですが、私自身の中で消化不良でもあったため、持ち出すことができずに終わってしまいました。

 このようにいろいろと反省点はありますが、ここで自分が持っているものの全てを吐き出してしまおうという気持ちで臨んだことには相違ありません。そのため、論理性については激しく減退している箇所もあるでしょう。しかし、今回はそれに目をつぶって、生の方向性を示すことに努めました。まぁ、浅はかだといえばそうなのですが、いまの私にできることというのはこのくらいですので、ご容赦ください。次の機会がありましたら、また違った面から試行錯誤の過程をさらけ出すことになるでしょうが、そのときまたおつきあいいただければ幸いです。ありがとうございました。

寒風吹きすさぶ中に木漏れ日のさす多摩の辺地にて 1999.12.18


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