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恋愛ゲーム学補講


第11講 恋愛ゲームの私小説性

99/04/09開講

 近年、今までに指摘してきたようなシナリオ系恋愛ゲーム、あるいは、「ONE」に影響を受けたと思われる、いわゆる「ダウナー系」ゲーム(※1)の流行によって、より制作者、特にシナリオライタの個が表れ、顔が見えるようになって来た。

 それ自体は歓迎できることだと考える。もちろん「作品論と作家論は分けて考えるべきである」という指摘はあるし、確かにその通りかもしれないのだが、恋愛ゲームの場合恋愛という身近(であるはず)なテーマを扱うものであって、その上で社会・心理・恋愛を通して恋愛ゲームを見たり、あるいは逆に恋愛ゲームを通して社会・心理・恋愛を見ようとする恋愛ゲームZEROおよび私のスタンスからすれば、むしろこの2つは決して切り離して考えることはできないと思うからである。

 さて、そこで作者側の事情を考えてみると、必ずしも恵まれた恋愛経験をして来たというのは余り考えにくい(もちろん全くモテナイくんでは駄目だろうが(笑))。また逆に、何不自由なく順風満帆な人生をのほほんと送って来た人間が人の心を打つ文章を書けるかというのも疑問である。いろいろなものを刻み込んできた、あるいは溜め込んできたからこそそこから発せられる一語一語が重みを持ってくるというものだろう。そうなると、彼らにとって今のダウナー系というのは親近感を持ちやすいし割と書きやすいジャンルなのではないかと思われる。

 だが、また同時にシナリオ系ゲーム等による個の発露は、時として自己満足・独り善がりに陥る危険性を孕んでいることに注意しなくてはならない。ビデオゲームの制作が(それはどんな創作にも当てはまるかもしれないが)しばしば「オナニー」に喩えられるのもそのためである。同人ゲームならば自己満足な作品であって一部の人しか同意できないとしても全く問題にはならないだろうが、市販ゲームという商品として決して安くはない価格で世に問うている以上、それは許されないはずだ。制作者の行き過ぎた自己満足的独り善がりな作品はユーザを置き去りにし、乖離を生む。先の「ONE」にしてもずいぶん独り善がりな面が指摘されているが、言葉の魔力もあってユーザの心を捉えた。だがそれは意外に微妙な危ういバランスの上の成功例である。これが「はるあきふゆにないじかん」まで行ってしまうと制作者が勝手に突っ走ってしまってすっかりユーザが置いてきぼりにされてしまうということになるのである。(※2)共感と疎外とは、時に紙一重なのだ。

 そこで制作者に必要となるのは、当たり前であるはずのプロ意識と誇りだろう。自分たちが楽しむのは大いに結構だし、また楽しんで作らなければいいものができるとは思えない。しかし、それ以上にユーザを楽しませなければならない(それも、ユーザに媚びるのではなく、作品の本質的な完成度の高さによって)という至上命令を与えられていることをしっかり認識すべきであると思わずにはいられない。例えダウナー系だろうが少なくとも後ろ向きな主人公やシンジくんでは受け入れられない訳だ。(笑)(※3)同人のように何でも好きなものを作っていればいいというのではない。自分で作ったものは得てして盲目的に良しと思い込みがちだが、ユーザの視点に立つことも大切だ。特に美少女ゲームという業界はその点において(いや、それ以外の諸々もだが)まだまだ未成熟という印象を拭えない。いい意味で大人になることが求められている。繰り返すが、エンターテイナーとしての自覚を、決して忘れてはならないのである。


※1、閉塞的、退廃的、厭世的、その他主人公あるいはゲーム全体の世界観が後ろ向きなゲームを指す。
































※2、それ以前に文章能力やセンスに問題があるのではないかという話もあるが…。(笑)独り悦に入られてもなぁ…。(笑)







※3、ユーザは自身とかけ離れた言動をする主人公にも、また逆に余りにも似過ぎている主人公にも嫌悪感を抱きがちであるということにも注意しておく必要があるだろう。(笑)裏論第5講のように、彼らは自分が嫌いなのだから。