虚無からは幸せは生まれない。
そんな気がしていた。
お馴染み「ONE」の文章である。「ONE」については散々書かれているのでいい加減読み飽きた向きも多いだろうが(笑)、我慢して頂ければ幸いである(ネタバレを含むので注意)。
「恋愛ゲーム学」と「学」とつくと何か小難しそうな印象を受けるかもしれないけれど、つまるところは「どうして自分は恋愛ゲームをするんだろう?」という最もシンプルでかつ本質的な問題に集約されている(これは美少女ゲームメールマガジンだが、以下恋愛ゲームを美少女ゲームと置き換えてもそれほど大きな間違いは生じないだろう)。もちろんその問いに正しい答えは存在しない。その答えは人によって当然違うからだ。「楽しければいいじゃないか」というのも間違いではないが、それならばどうして楽しいのか、ということを考える必要がある。
「ONE」を読んでいて、「これは恋愛ゲームのことを言っているのだろうか?」と錯覚した覚えがある。つまり、「ONE」の世界でいう現実世界とえいえんの世界との関係が、恋愛と恋愛ゲームのそれに対応しているのではないだろうか、と。もちろん相違点も色々あるが、また類似点もあるのではないだろうか、と。
恋愛ゲームを恋愛との関係の中で捉えようとする時に決まって出されるのは、恋愛ゲームと恋愛とは無関係であるという意見だ。恋愛ゲームと恋愛とは相互不可侵であり、両立可能であると。この考え方は決して間違いではない。だが、人によっては恋愛ゲームは恋愛から独立であって独立でない微妙な部分を持っているのもまた確かではなかろうか。「ONE」において対応する個所を見てみよう。
それは別にこの世界(えいえんの世界:筆者注)を否定しようとしたんじゃない。
この世界の存在を受け止めたうえで、あの場所(現実世界)に居残れるんじゃないかと、思っていたんだ。
それはそうだ。誰も現実の恋愛ができないと思っている人はいないだろう。例えそれが希望、あるいは願望の域まで達していたとしても。
だが、「きみ」はこういうのだ。
(たぶん…無理だったと思うよ)
(この世界はあなたの中で始まっていたんだから)
恋愛で解釈すれば、つまり幼児期や思春期の愛情経験・恋愛経験によって、その後の人生(少なくとも恋愛活動)が規定されてしまう可能性を示唆していると言えるだろう。その時、果たしてヒトは恋愛ゲームから解放され得るのだろうか。自分の恋愛ゲームとの付き合い方を見直して行くこと。それこそが恋愛ゲーム学の根幹であり、そこから全てが始まるのである。
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