前々回のTodayで恋愛ゲーム学の本質とは「どうして恋愛ゲームをするのか」ということであるということを書いた。もちろんその理由は人それぞれだろうが、多くの恋愛ゲームユーザの根底に共通して流れるものは、彼らの志向や恋愛ゲームが進んでいる方向性から推測できると思われる。
恋愛ゲームブーム初期には、ナンパゲームから恋愛ゲームへの質的転換が行われたが、それ以後もユーザの「純愛」志向はますます強まるばかりであって、先の「ToHeart」にしてもそうだが、シナリオが良いゲームであるほど「(とってつけた)えっちシーンはない方がいい」という意見が多く出され(というより、駄目なゲームは「それ」ぐらいしか見るべきところがないということか(笑))、18禁である必要性が薄れてきているようにさえ思える(強力な補完能力を備えている恋愛ゲームユーザでさえその行間を補完することはできない/抵抗があるらしい)。ゲーム内容的にもユーザ集団にしてもコンシューマ恋愛ゲームとPC18禁恋愛ゲームの差はなくなりつつあるようだ。
しかしこれは、セックスという問題を否応無しに突きつけてくる、現在のいわゆる「恋愛」が向かっている方向(※1)とは必ずしも一致しない、いやそれどころか逆を向いているようにさえ見える。これを、創作としてより高い水準に引き上げるため、という理由だけで片づけることはできないだろう(というより、ビデオゲーム以外の創作でも普通に表現の一つとしてセックスが扱われているのであるし)。何故恋愛ゲームは、そういう方向性を持ったのだろうか。ここで、私がしばしば使う言葉を挙げておきたいと思う。すなわち、「恋愛ゲームは、恋愛よりも(より純粋に)『恋愛的』である」ということを。
言い換えれば、恋愛ゲームは、過去のものとなった「恋愛」という概念に対する憧憬なのではないだろうかということだ。(※2)恋愛ゲームが、いつも過去向きのベクトルを持っていることはすでに指摘してきた通りであるが、恋愛ゲームは、もしかしたら過ごしたかもしれない過去の青春時代に触れて感慨に浸らせるのと同時に、崩壊した過去の「恋愛」自体を回顧しているのではないか。同様な言葉に「少女」がある。この言葉も死語になっており、普通日常社会で使われることは全くと言っていいほどない。この言葉を今でも目にするとすればそう、このメールマガジンが扱っている「美『少女』ゲーム」ぐらいのものだ(あるいはオヤジ搾取の類か)。「少女」が失われた世界に創られた「美少女ゲーム」、そして「恋愛」が失われた世界には「恋愛ゲーム」が創られた。「少女」に対する憧憬、そして「恋愛」に対する憧憬。
つまりそれは、「幻想」だ。すでに失われたものへの。
もちろん、それが必ずしも悪いわけではない。人は幻想なしでは生きていけない。しかし、「終わりなき現実を生きろ」(※3)というのはもう流行らなくなったらしいが(笑)、幻想のみでも生きていけないという事実が変わる訳ではないのも確かなのである。
もっとも、恋愛の場合は、これが正しい恋愛観である、というものはない。各人の主観と、その集合である社会的通念が相互に影響し合って形成されるものであろうから、人権的不平等のような問題がない限りどんな恋愛観が通用してもいいはずだ。だが、マジョリティを構築して行くためには、とりあえず表向きだけでもその「制度」に組み込まれて競争に勝ち残って行かなければならない(※4)というもどかしさ(笑)があることも、また指摘しておかなければならないであろう。(いや、自らマイノリティであることを「選択」しているのかもしれないが。(笑))
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※1、もちろん、必ずしもそうではなく、逆にセクシュアリティとの決別としての友達カップルのようなものもメジャーになりつつあるが、これにしても従来の「恋愛」とは異なるだろう。
※2、では純愛ゲームじゃなくて純鬼畜ゲームはどうなんだ、と思われる向きもあるかもしれないが(笑)、それはそれである意味憧憬だろう。(笑)
- 少女幻想+性欲
→美少女ゲーム
- 少女幻想+恋愛幻想
→恋愛ゲーム
と考えると分かりやすいだろうか。
※3、もちろん、宮台氏ら共著のタイトル。宮台ブームはとうに終わっているそうだ。飽きやすい今の若者たちらしいというか……。
※4、「制度」と言えば教育制度もどこか似ている。それに不満を持ち、変えようとするならば、まず受験競争の勝利者とならなければならないであろう。
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