記事No.175 へのコメントです。
>>事実を単純化するための作為的なものを感じるのですが、ワタシの考えすぎでしょうか?>というより、あるラインを越えた段階から、加害者の人権というのがどうも欠落しているみたいです、マスコミ全体から( ..)b
>「あげな事件引き起こした奴に人権なんぞあるかい」
あ、そっちの方から考えられましたか。
ワタシが思ったのは今回の事件、マスコミは単純に「既知外児童を虐殺」という構図で処理したがっているようですが、じっくり考えると自己矛盾を内包していると思うんですよ。
あえてそういう部分に踏み込んだ談話は小泉首相の
>「安全な社会が崩れつつあるのをどうしたらいいか、いろんな人の意見を聞いていかねばならない」と話した。こうした事件は「だれに起こっても不思議ではない」とも語り、危機感を募らせている様子だった。
というものだけなんですが。
「安全な社会が崩れつつある」という事態を「社会、政治、経済のリンク」から論じていくと泥沼になるので、そこまで踏み込みにくいというのは理解できるんです。
いわばこちらがマクロな自己矛盾で、読者には深く読まないと分かり難い事。
児童のPTSD対策云々を詳しくすれば、事件当初叩きに叩きまくった「精神安定剤」に踏み込まないといけない。
これはミクロな自己矛盾。
同様に「そういう治療(ケアやカウンセリング)が加害者になされていた」と思われるのに、こういう犯罪が起こった、さて「治療って効果あったんかいな?」。
これもまたミクロな自己矛盾。
こういうミクロな自己矛盾に踏み込むと、読者が混乱して報道効果が小さくとなるというか事件の構図を簡単にすることが困難になる。
「児童達のPTSD対策としてココロのケアやカウンセリングを・・・」という記事の横に、「加害者もカウンセリング等の治療をしていたが」という記事を載せることによって、最初の記事の報道効果がオシャカになる。
それならあえてそういう面は「なかった事にしよう」という考えがなされたのではないか?
それがワタシが感じた「作為的」な面なのです。
マスコミってそういう事をするのかどうか、先に構図を決めてその構図に最適なように記事内容を拾捨選択することがあるのか。
それが判らなかったのです。
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