記事No.99 へのコメントです。
ヴィンセント=ベインさんのおっしゃるようなことを、去年大学でかじったのですが…。まあ、素材は文学でしたけど、文化的な作品一般に共通する問題だと思います。昔の文学批評(研究)というのは、その作品が生まれた時期の著者の人となりについてなどもことこまかに研究し、「著者は」何を表現したかったのかということを追求することに価値を見出そうとするものでした。
それに対するアンチテーゼとして、文学テクストを読んだ「読者」の内面に何が起こり、作品がどう受け取られていくか…読み手が居なければ、テクストは作品として完成しない、という考え方が生まれたとのこと。W.イーザーという文学研究者の論を読んだのですが、有名どころの学者ではヤウスなんかも同じような研究をしてたようです。
以上は薀蓄ですが…「受け手がいないと作品は作品として成立しない。それは作者のセルフ・ポートレイトになってしまう」という考え方に共感できたので、去年の研究テーマにしてました。同時に、作品の解釈が受け手の意識や経験などに完全に委ねられるというものでもなく、「作品」を仲介役として「作者の意図」と「受け手」の間にある一定の規範を持った関係を構築する、というようなこともその受容理論はうたってまして、「なるほどなあ」と。
今回のベインさんの疑問の解決に至るヒントとなれば幸いですが。 [ この記事にコメントを返信する ] [ 原文引用 ]