記事No.104 へのコメントです。
ベートーベンならベーゼンドルファーがいいんじゃないでしょうか。個人的にはブリュートナーとかいいなって思いますが。
ポールマッカートニーご愛用なんですが、あぁいう弾き語りのスタイルには合ってるかな〜っていうか。
あの人のメロディセンスに合ってるというか。
イエスタディとかフールオンザヒルなんか、音色が影響してる気がするのです。
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遅れてごめんなさい |
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記事No.104 へのコメントです。 ベートーベンならベーゼンドルファーがいいんじゃないでしょうか。個人的にはブリュートナーとかいいなって思いますが。 ポールマッカートニーご愛用なんですが、あぁいう弾き語りのスタイルには合ってるかな〜っていうか。 あの人のメロディセンスに合ってるというか。 イエスタディとかフールオンザヒルなんか、音色が影響してる気がするのです。 [ この記事にコメントを返信する ] [ 原文引用 ] |
補足? |
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記事No.106 へのコメントです。 引っ張るのも何ですが折角ですから。ええ、前回の僕の文章があやややや…な書き方でしたね。 僕が例に挙げた「受容理論(または受容美学)」という論法は、ベインさんのおっしゃるような発想で生まれたものでもあるですヨ。 それ以前の考え方というのは、「作品」=「作者」であり、ゆえに作品の研究=作者の研究、だったのですね。 それを「受け手」を視界に入れながら、作者の元を離れた文学テクストという存在を考えようじゃないか、と。 受け手の評価、ということではなく、作品は受容されたときに受容者に内部化されて完成をみる、というか。 音楽で言えば、演奏を聴かれるなり譜面を見て頭の中で鳴らされるなり、「音」として発せられた時点で受容は起こっていると解釈できるというのが、僕の中での理解です。例えばテープがゴロンと転がっている。このままではただのテープですが、誰かが「聴いた」ときにそれは「音楽」になり得るわけですし。 ううん…うまく書けないなあ(苦) さておき。 「絶海の孤島にひとりきり。さて、音楽をしますか?」という問題。 僕もするに一票です(笑) むつかしい理屈をこねくりまわすよりも、自分にとっての音楽がすでにライフワークになっているこの体に住んでいる僕としては、「とりあえず、やるか」なわけで…。 まあ、理屈の部分で悶々としたことが、生まれてくる音楽にフィードバックされるもんだと思うので、理屈こねるのは好きです。 哲学の基本理念は「答えのない問いを問い抜く」、つまり答えを求めようとすることではなく、答えがないと解りきっていることに対する「問う」という姿勢にあるといいますが、「音楽って何なんだろ?」という疑問も、一緒ですよね。決まりきった答えなんか出ないのは目に見えてるのに、考えることが面白くて仕方ない。 そんなのもいいかなと思うのです。 何を表現しているのかわからなくなる。そのことを表現しようとする。そういうある意味で原理的に矛盾を孕んでいてもなお「表現」は成されてゆくところが、芸術の芸術たりえるところであり、価値であるというか。 そうやって、表現して、悩んで、自分なりに何か悟って、表現して、また悩んで…と、そのときごとに違ってくる「自分の音楽」に対して、自分は正直でいたいなあと思うのです。 駄文でごめんなさい。 [ この記事にコメントを返信する ] [ 原文引用 ] |
Re:受容 |
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記事No.105 へのコメントです。 >以上は薀蓄ですが…「受け手がいないと作品は作品として成立しない。それは作者のセルフ・ポートレイトになってしまう」という考え方に共感できたので、去年の研究テーマにしてました。同時に、作品の解釈が受け手の意識や経験などに完全に委ねられるというものでもなく、「作品」を仲介役として「作者の意図」と「受け手」の間にある一定の規範を持った関係を構築する、というようなこともその受容理論はうたってまして、「なるほどなあ」と。 あの後,,私も私なりにいろいろ考えてみたのですが. 受け手がいないと”作品”としては成立しない.というのはあくまで相対的観念上の問題であって.”作品”というものはある意味完成したときから(厳密な意味ではないです)作者から独立する,という一面もあると想うのです. 風水さんのようにプロでやっていくのならば,それはもちろん,受け手に評価されなければやっていけませんが... 例えば「”絶海の孤島(笑)”にたった一人きりで暮らす,」という事になっても私は音楽を作るのはやめない,と想うのです. それは自分のためでもなく,誰かのためでもなく”音楽”が存在する,,,という事自体が意味があること,,のような気がするからです.(突き詰めると自分のためになると想うのですが,,それなら,,自分のためだけではないのです) 例え,僕が死んでも,誰もその音楽を聴く事がなくても,,,その音楽が存在した.という事実が変わるわけではなく..ただ,それは自分自身にとってだけ意味があるのではなく,その”音楽”自身の意味なのでは,,と. 物事の価値って結局自分自身がそれ自体に価値を見いだせるか?という事だと想いますし. あと,これに平行して思い出したのですが. 今,私がここで溜め息をついたことにより,台風が起こるかも知れない(モトネタがなにか忘れてしまいました.) この他愛ない仕草の一つ一つも,周りのモノに影響を与えていって,,ある意味世界を変える...と, 無意味なモノなど,大きい眼で見れば存在しないのだ,と.(別の目的がからむと,無意味が存在するということは理解しています,) >今回のベインさんの疑問の解決に至るヒントとなれば幸いですが。 あ,,いや,(汗)すみません,上であややな事書いていますが,参考になりました(汗)(汗) (飛びすぎている気がする..) 何を表現しているか,,なのかな.. [ この記事にコメントを返信する ] [ 原文引用 ] |
受容 |
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記事No.99 へのコメントです。 ヴィンセント=ベインさんのおっしゃるようなことを、去年大学でかじったのですが…。まあ、素材は文学でしたけど、文化的な作品一般に共通する問題だと思います。昔の文学批評(研究)というのは、その作品が生まれた時期の著者の人となりについてなどもことこまかに研究し、「著者は」何を表現したかったのかということを追求することに価値を見出そうとするものでした。 それに対するアンチテーゼとして、文学テクストを読んだ「読者」の内面に何が起こり、作品がどう受け取られていくか…読み手が居なければ、テクストは作品として完成しない、という考え方が生まれたとのこと。W.イーザーという文学研究者の論を読んだのですが、有名どころの学者ではヤウスなんかも同じような研究をしてたようです。 以上は薀蓄ですが…「受け手がいないと作品は作品として成立しない。それは作者のセルフ・ポートレイトになってしまう」という考え方に共感できたので、去年の研究テーマにしてました。同時に、作品の解釈が受け手の意識や経験などに完全に委ねられるというものでもなく、「作品」を仲介役として「作者の意図」と「受け手」の間にある一定の規範を持った関係を構築する、というようなこともその受容理論はうたってまして、「なるほどなあ」と。 今回のベインさんの疑問の解決に至るヒントとなれば幸いですが。 [ この記事にコメントを返信する ] [ 原文引用 ] |
Re[3]:著名なピアノ |
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Re[2]:著名なピアノ |
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記事No.102 へのコメントです。 >それ関係の資料を,廃品回収に出してしまったことに気づく(あぅぅぅぅぅ)あやややや……もったいない( ..)b >個人的にはスタインウェイ,ベーゼンドルファー当たりが妥当なのでは,と思いますが. ベーゼンドルファーを漁ってみました。確かにいい感じですね。 アルトゥール・ルービンシュタインが1924年にベートーベンのピアノソナタを弾くシーンを書いているので、これで行こうと思います。 どうも( ..)b [ この記事にコメントを返信する ] [ 原文引用 ] |
Re:著名なピアノ |
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記事No.101 へのコメントです。 え〜っと,,ゴソゴソ,,,それ関係の資料を,廃品回収に出してしまったことに気づく(あぅぅぅぅぅ) で,,いろいろ検索してみました. http://page.freett.com/thara/PIANO4.html とか 以下,あるホームページから抜粋. 我が家でレンタルしているピアノは1920年代に作成されたBechsteinですが、音質は Bechstein独特のたいへんやわらかい暖かい音色を持ち続けており、全く実用に問題 ありません(私は素人ですが、ピアノの先生も同様の意見)。 ここドイツでは空気が乾燥しているので、ピアノを長期間保存するには良い環境なの かもしれません。1920年代というとドイツの何処かで第二次世界大戦の戦火をかいく ぐって来たということで感慨もひとしおです。ちなみにドイツ製のピアノでは我が家 のピアノよりも新しい1940年代、1950年代のピアノの方が質的にはよくないそうです 。理由はやはり戦争の関係でよい材料(特に木材)が使えなかったからだそうです。 ・ ・ ・ 個人的にはスタインウェイ,ベーゼンドルファー当たりが妥当なのでは,と思いますが. [ この記事にコメントを返信する ] [ 原文引用 ] |
■ 著名なピアノ |
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……って、なにがあるでせうか?
とりあえずプレイエルくらいしか知らないんですが、1930年代に出しておかしくないピアノで、逸品と呼べるものをご存じの方、おられませんか? あと、プレイエルにもいろいろあるはずですが、1930年代の場合、今、世に出まわっているピアノと基本構造やら音色は同じでいいんですよね? [ この記事にコメントを返信する ] [ 原文引用 ] |
感想ありがとうございます |
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記事No.99 へのコメントです。 Kさんヴィンセントベインさん、感想ありがとうございます。色々深遠なことを考えているかといいますと・・・。 あんまり考えてません(爆) 音楽って主語が無い詩というか・・・そんな感じがするんです。 特にゲームの場合は主語は絵なり物語で示されてることが多い。 「誰が」とか「何が」じゃなくって「どうだ」って動詞を助けるために音楽は頑張ることを期待されているんじゃないでしょうか。 寒い・・・さびしい・・・ こう書かれるだけより、皮膚感覚を呼び覚ます効果の高さが求められていると言えるかもしれません。 闇のなかでいつまでも待つもの。 永遠に待つもの。 運命の輪を回しつづけるもの。 こういう存在って存在してるんでしょうか。 生きている実感ってあるんでしょうか。 永遠って、囚われってことじゃないか。 永遠に待ち続けるものの孤独、悲しみ、怒り、諦め・・・。 サビシイ、カナシイ、ハラダタシイ、モウイヤダ、・・・。 そういう物を追いかけて曲を作ってるつもりです。 後半でココロが動いているのは確かですが、それは永遠のなかの一瞬。 リピートで聴くと判りますが、やはり永遠から逃げられないのです。 [ この記事にコメントを返信する ] [ 原文引用 ] |
Re:横槍レスです |
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記事No.98 へのコメントです。 >>「少年」…すでに「幼児」ではなく、いまだ「青年」でもない。>自分の少年時代(いつからいつまでかなあ)を振りかえるに、 >この曲の前半部分(嵯峨さんのいう単調な部分)は、「醒め」た大人への変身を望む表層意識みたいなもの >後半のコードが入ってきて「熱く」なる部分は、まだ大人になりきらない少年の深層意識にある情熱というかなんかこう未成熟なアツい塊 どうも,,このレス読んで想ったことを,,書きます. 曲って,,作曲者が意図したモノと関係なく,オーディエンスの一人一人がその曲に投写することによって,”感動”するものなのかな,と. 作曲者の曲にこめた想いと聴き手の感覚っていうのは,同じに見えて実は全然違う次元にあるのではないか.とふと,感じました. 音楽を演奏するひと,音楽を聴くのが好きな人,音楽にあまり興味がないひと. 聴き手,っていろいろありますけど. その曲について完全(?)に分かる(?)のは,作曲者自身のみなのかな,と. ,,,当たり前の事なのかなぁ? 今まで分かった気になっていたんですが(汗) [ この記事にコメントを返信する ] [ 原文引用 ] |
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