記事No.186 へのコメントです。
>感情論を唱えていいのは、事件の当事者だけなんでしょうなぁ……>野次馬が、感情に訴えたって、それこそはた迷惑っていう。
ということなんです。
いいたいことの大半はSagaさんが書いてくれましたが……もうちょっとだけ。
その昔、半世紀以上前、ナチス・ドイツってのがありました。
この人たちは、ヨーロッパで数百万のユダヤ人を殺したほかに、精神病質者とジプシーたちも大量に殺しました。
理由は「こんな連中が生きているのはキモチワルイ。ドイツが穢れてしまう。殺したほうがこいつらのためである」
という理屈からでした。
私が以前住んでいたところにはいわゆる精神薄弱児の養護施設がありまして、いわゆる本物の人たちを私はけっこう見ています。
確かに、(ここだけ抜き出すと誤解されるのは確定的だが)見て、その言動を見ると、一瞬引くものはある。
でも、それを理由にこの人たちを殺していい、というわけでは決してないでしょ? それに、よく見ていると、この人たちは単に認知の一部に不十分な点を抱えているだけで、感情もあることが徐々に見えている。健常者のそれとは異なっていても、人間として生きているのが見えてくる。
ナチスは、それを一言で「うざい」と称して、片っ端からこの人たちを殺しました。もう、徹底的に。リポートによれば「これだけ殺したから、今後ドイツではこの手の人間は遺伝的に現れないだろう」と、得意げに締めくくってました。
で、実際はどうだったか?
その後もしっかり存在しています。産れた子供の中で一定確率、確実に精神薄弱の子供は出てきた。 つまり、発生確率として一定の割合はどうしても出るようになっているんです。それが自然なのです。
この問題は、防災問題に近い部分があるんです。台風の発生で毎年人命が損なわれますが、台風そのものの発生を止めることはできない。ならば、被害を受けないような社会的な意味の構築をどうするか、受けた場合のケアをどうするか、そこに知恵を絞るしかない。
根元を絶てばそれでよし、という考えは、結局は偏見と傲慢さを肥大させるだけで、何の解決にもならないのです。その考えの根底には、健常者以外の存在を認めない、というものがあるのでしょう。
責任の問えない存在のプライバシーを暴く行為って、結局(Sagaさんが書かれているように)その周りや家族をさらし者にして磔にする行為でしかない。結局、ナチスがやっとることと大差ないんです。社会的にその存在を葬ろうとしているんだから。むしろ、家族から攻めている分、やりかたがより悪質かつ陰湿と言えます。
マスコミは第四権力と言われ、その動き方によっては個人を容易に破滅させることができる。
だからこそ、単に感情に流されてはならないのです。庶民で隣のオバチャンが口にする「正義」と同じことをしてそれでよし、なら、別にマスコミっていらないじゃないですか。それこそオバチャンをキャスターなりリポーターに雇えばいい。
でも、それじゃまずいんです。影響力が強く、責任が生じる立場なんだから。
ミスリードには、それに伴う責任がある立場の人たちなのです。だからこそ、見ている側にも(例えそれを表明することで嫌われようが疎まれようが)書かねばならない時があるんです。私は、今がその時だと思って書きました。
というわけで、これを読んで 三木原慧一など最低だ と思う人が一定の割合で出ることは覚悟しています。でも、過去の歴史を知る人間としては、ナチスのやっとることの縮小版をマスコミがやることへは、あくまで反対するつもりです。
人間的な自然な感情の発露が、時として、自分が最も忌避する存在を擁護する結果になる、というのはパラドックスですが……時にそういうことは起こるのです。だから、報じる側は気をつけなければいけないのです。(本来なら)責任が生じる立場なんですから。
その意味からいえば、マスコミの世界はいわゆる「下手なアマチュア」が増えすぎましたね。尊敬できるプロが少ないのです。
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