記事No.174 へのコメントです。
>事実を単純化するための作為的なものを感じるのですが、ワタシの考えすぎでしょうか? というより、あるラインを越えた段階から、加害者の人権というのがどうも欠落しているみたいです、マスコミ全体から( ..)b
「あげな事件引き起こした奴に人権なんぞあるかい」
そう思われる人たちも多いでしょう。でも、責任能力が問えない(かもしれない、少なくともその可能性が最初から大いにある)存在に対して、実名報道ってのはまずいのです。
フジテレビが最初に実名で報道しはじめ、残った各社も(規制し続けることは無意味ということで)実名解除に踏み切ったようですが……フジテレビに関しては、なぜ実名解除に踏み切ったかの説明責任を問う必要があると思われます。
あんなことした奴だから、当然だ。
そう考えるのは、反発を覚悟で書きますけど、ただの傲慢です。
ルールとしてそうなっている理由を考えれば、これは判る問題のはずです。
実名での報道は、責任能力の是非について専門家が鑑定を行い、判定が出てからでも遅くはなかった。
ケースは逆に見えますが、ハンセン氏病の隔離政策とやってることは同じです。
一方は「臭い物には蓋。隠してしまって『存在そのものをなかったことにしよう』
今回のケースは「こんな奴はさらし者にして当然だ。人権などない」
逆に見えて、根っこにある感情は対象に対する忌避と憎悪。人権の無視です。
憎悪しても、対象そのものに責任を問えないケースはある。
それを認めるのは、苦しいことです。でも、必要なんです。
こう書くとたいてい「だったらお前の肉親が殺されたら、そう冷静に書けるのか?」という反応が帰ってきます。
答え。それは無理です。冷静でいられるはずがない。
でも、冷たい書き方をすれば「第三者には」それが可能です。そして、私は事件の当事者でも巻き込まれた側でもない。
直接の被害者とその家族には、加害者を憎悪する権利はある。でも、周りまでそうである、ということでは決してない。それともう一つ。冥福を祈って……という言葉をマスコミや政治家もよく使いますが、犠牲者の冥福を本当に祈れるのは、犠牲者が本当に何者であるかを知っている友人、肉親、関係者だけです。その他はある意味、「部外者」に過ぎない。
第三者が冥福を祈り、加害者を憎悪し、今回のように法の規制を無視してさらし者にするのは、一見正義感に満ちた行為に見えますが……結局、それは行為者の自己満足に過ぎない。むしろ、問題の本質を見るのに強い負の感情を持ちこみ、解決そのものを妨害する行為に過ぎない。
そう思っています。
断っておきますが、私も腹を立て、殺された子供たちのことを気の毒には思う。でも、私は彼らをある意味何も知らない。報道されている事柄を幾つか知るだけで、殺された子供たちがどんな笑顔を返し、人生を歩み、その肉親の人生がどうであったかを知らない。だから、その点においては徹頭徹尾完全に他人なのです。
冥福を祈り、犯人を憎悪する個人的な行為を駆使できる立場にはない。
だからこそ、そうした感情に流されぬ視点でこの問題を見るべきだと思っています。
つい先ほど、頼藤氏の「わたし、ガンです」を読み終えました。
この人は、ガンという事実に意識的な忘却や願望を持ちこむことを拒否して、事実をありのままに見つめる「認識の鬼」でありたい。と書かれています。自分自身の絶望的な状況にもこうした認識を持てる人がいるのです。第三者の問題に関して、認識の鬼であるという行為がどれほど難しいか?
少なくとも、頼藤氏の行為より困難ではないはずです。感情に流されて、問題の本質を見失う愚だけは避けたいと思います。それは死者たちも望むものではないでしょう。
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