遺跡の特徴 遺跡は江戸城北の丸(現北の丸公園)の東縁、清水濠に面した地点に位置しています。 江戸城は徳川家康が江戸に入府して以来、幾度もの天下普請が行われていますが、この地点は元和6年(1620)までの普請によって大規模に整備され、主に徳川家近親者の屋敷地として利用されてきました。明暦3年(1657)の大火(いわゆる振袖火事)以降は屋敷は取り払われて「蔵地」として幕末をむかえ、明治以降は陸軍用地となって近衛兵の兵舎などが建てられました。
トピックス 江戸城の造成 江戸幕府成立後、徳川家康は諸国の大名に命じて江戸城整備のための土木工事を行ないました。これを天下普請といいます。江戸城のある一帯はもともと起伏のある地形だったのですが、この天下普請によって今のような広い平坦面が作られました。 今回の調査地点である北の丸も、元和六(1620)年までに造成されたことが記録に残されていますが、発掘調査によって北の丸東縁部分の造成工事の詳細が明らかになりました。 元来は西から東にかけての緩い傾斜地であったところをまず段切り状に切り土し、複数の狭い平坦面を作ります。その上に何層にもわたる盛土を施し、最高位の平坦面と同じ高さになるように揃え、最上層を整地して生活面が構築されていました。東端部は石垣を築いて土留めとしています。(今の清水濠の石垣です。) 切り土は西側ほど深く最大で5mほど、盛土は東側の最深部で7mほどの厚さになっており、この数字からも動かされた土量がかなりのものであったことが想像できます。 ちなみに、盛土に用いられた土には斜面上位に堆積していた黒色土も使われており、この中から縄文・古墳・古代の各時代の土器が少量ですが見つかっています。特に古墳時代の土器が多く、西側の台地上に集落が広がっていた可能性が考えられます。が、残念ながら江戸城の造成工事ですでに消滅してしまったと思われます。
平成20年5月現在