遺跡の特徴 遺跡は江戸城北の丸(現北の丸公園)の東縁、清水濠(しみずぼり)に面した地点に位置しています。 江戸城は徳川家康の江戸入府以来、幾度もの天下普請が行われていますが、この地点は元和6年(1620)までの普請によって大規模に整備され、主に徳川家近親者の屋敷地として利用されてきました。延宝年間(1673〜1680)には屋敷が取り払われ、以降は「蔵地」として幕末をむかえ、明治以降は陸軍用地となって近衛兵の兵舎などが建てられました。
トピックス 調査地点の屋敷変遷(8)〜塵芥集積地〜 延宝2(1674)年の中丸様(本理院=家光の正室)の死去の後、この地は蔵地(くらち=江戸城に関わる倉庫エリア)として使用されていました。 しかし19世紀の半ば以降、火災や地震などの災害が立て続けに発生したことにより、竹橋蔵地は災害時の復旧作業場所として使われるようになります。 記録によると、天保9(1838)年の西の丸の火災、同15(1844)年の本丸火災の際には「焼灰」を俵につめて竹橋蔵地内に運び込み、そこで金銀銅鉄の分別を行ったとされています。さらに安政2(1855)年の大地震後には、復旧工事のための作業小屋(飯場)が設けられたようです。 また、運び込まれた大量の廃棄物はその多くが外部の埋立地に搬出されましたが、一部が蔵地内に埋められていたことが、記録には残されていないものの隣接地での遺跡調査から明らかになっています。 今回検出された遺構では、調査区中央部に長さ約20m、幅約15m、深さ最大2.5mの巨大な土坑(どこう=穴)が確認されており、この内部からは大量の焼けた瓦などが出土しています。また下層には割れた石や粘土混じりの土が堆積していることから、災害復旧の際に良質な土を採取するための巨大な穴(採土坑=さいどこう)を掘り、その穴を大量の廃棄物(土砂・瓦・陶磁器等)で埋めていた様相が明らかとなりました。 このほか、やや小規模の同様の土坑からは瓦に混じって製鉄関連具である鞴(ふいご)の羽口が出土しており、復旧工事の際に鍛冶工房が設置されていた可能性が考えられています。 安政6(1859)年にも本丸が火災で焼失し、繰り返される災害とその復旧に追われる江戸城でしたが、その8年後の慶応3(1867)年に大政奉還を迎え、江戸幕府中枢としての役割を終えます。 時代が明治になると北の丸は陸軍用地となり、近衛歩兵営等として使用されますが、幕府の鉄砲蔵が置かれていた当地においては、その施設をそのまま引き継いだのか、近衛砲兵営として使われるようになりました。 さて、屋敷の変遷もこれで最終回です。次回は出土遺物のうち主なものをご紹介します。次回の更新までしばしお待ちください。
平成21年1月現在