遺跡の特徴 遺跡は江戸城北の丸(現北の丸公園)の東縁、清水濠(しみずぼり)に面した地点に位置しています。 江戸城は徳川家康の江戸入府以来、幾度もの天下普請が行われていますが、この地点は元和6年(1620)までの普請によって大規模に整備され、主に徳川家近親者の屋敷地として利用されてきました。延宝年間(1673〜1680)には屋敷が取り払われ、以降は「蔵地」として幕末をむかえ、明治以降は陸軍用地となって近衛兵の兵舎などが建てられました。
トピックス 出土した遺物たち(4)〜中之丸邸(その弐)〜 「中之丸(なかのまる)様」(=本理院・3代将軍徳川家光の正室)の屋敷から検出された木組みの土坑からは、前回お伝えした2本の刀のほかに3本のさし銭(=穴に紐を通して束になった銭貨)が出土しています。 3本はいずれも厚く錆に覆われているため、現在その錆の除去を行なっており、そのためそれぞれの塊がどのような銭種で構成されていたか、また何枚の銭貨が束になっているのかは、これから明らかになってくると期待されます。 なお、銭銘が判別出来たごく一部のものはすべて寛永通宝でした。寛永通宝の1枚の重量は約3g前後となっており、出土したさし銭の重さを単純にこれで割ると、一番長い(写真1)が54枚分、二番目の(写真2)が40枚分に相当します。 さし銭は一般的に100文相当と言われていますが、実際には96枚が「一さし」として束にされている事例が多く、木枠内から出土した2本は合わせるとちょうどこれに相当するのではないかと考えられます。 ではこのさし銭や刀は、どのような理由で埋められたのでしょうか? 同時に出土したかわらけ(素焼きの皿)が10枚以上も確認されていることなどから、「地鎮」に伴う施設であった可能性が考えられますが、細かい獣骨や魚骨が散在した状況で見られるといったこともあり、単純に地鎮の施設とするには躊躇せざるを得ません。 さらに、この木組み土坑の内部は焼けた土や炭化した木材が多量に廃棄されており、これらは火災によるものの可能性もありますが、あえて燃やして埋めたかのような状況にも見て取れます。 このような様相から、現時点では、屋敷内での何らかの儀礼的な行為を行なった施設、といった解釈がなされています。類似した施設がほかの江戸遺跡からも確認され、その性格の詳細が今後明らかにされることが期待されます。 「中之丸様」が延宝2年(1674)に没した後、この地は幕府の「蔵地」として使用されます。「蔵地」からの出土遺物にはどのようなものがあったのでしょうか。そのお話はまた次回の更新でお届けします。
平成21年5月現在